2026.07.24
コラム

古本屋になりたいわたしの脳内営業日誌
さぁ、夏休みが始まった。
とは言っても、大人には夏休みなんてものはない。
5歳児のリズムに合わせて生活しているので、全力で1日を駆け抜け、夜9時前には寝床につく強制睡眠充実生活が続いている。
子供が眠った後に自由時間を楽しもうと目論むも、一度横たわったが最後、日中酷使した肉体は布団に沈み、ほとんど朝まで起き上がることが出来ない。
たまに、深夜3時あたりに目が覚めるとそっと寝床を抜け出し書斎へ向かう。
デスクライトのスイッチを押し、暗闇に浮かび上がる本棚や積読タワーの山々をぼんやり眺める。
そして、当てもなく心を遊ばせる束の間のひとときに、ポツリと呟くのだ。
「自分が買い集めた古本や古物を並べるお店をやりたいなぁ」
子供はまだ小さくて、古本屋なんて夢のまた夢。
でも、いつか…。
そんな風に時々夢を膨らませているわたしなのだが、それと同時に、こんな店にしたいこんな本をこんな風に並べようと妄想していると、必ずお客さんの幻影が見えてくるのだ。
まだ開店していないのに、私の脳内では、今日も営業が始まっている。
そして、そこではすでに何人もの困ったお客さんが来店している事態になっている。
「これ、この値段?他の店では〇〇円だったけど、安くならないの?」と値切る人、立ち読みだけで三時間滞在する人、長時間一方的に喋るだけ喋って満足して帰る人、手に取った本を違う棚に戻したり本を雑に扱う人、そして、「こんなので商売成り立つの?儲かるの?」と本もろくに見ずに興味本位で失礼な質問ばかりしてくる人…
現実には、誰も来ていない。
つまり私は、実在しないお客さんの接客で疲れているのである。
人間の心配というのは、どうやら現実よりも想像の方が育ちがいいらしい。
開業資金より先に、「もしこんなお客さんが来たらどうしよう」という想像力だけが日々順調に育っている。
不思議なことに、わたしの妄想の店にやってくるのは「本好きの人」ではなく、「困った人」ばかりなのだ。
理由は明快、これまでさまざまなシーンで色んな人間模様を観察してきた経験が良くも悪くも裏目に出ているのは自分でもよくわかっている。
そしてここ最近、また新たに困ったお客さんデータが蓄積された。
それは、先日訪れた古物や古着を扱うイベントで、ヴィンテージの洋服を取り扱っているブースで買い物をしていた際の出来事だ。
「主催者との付き合いでこのイベントに出店しているけど、お客のマナーが悪すぎて高価な品物は表に出さないようにしてるんだよ」
険しい表情の店主の目線の先には、早速その言葉が具現化された光景が広がっていた。
片手に屋台で買ったロングポテトが山盛り入ったプラ容器を持つサングラス姿の若い男性が、表面に水滴がたっぷりついたアイスコーヒー入りのカップを持つ手で、店頭に吊り下げられている商品を摘んで眺めている。
その様子は見ていてハラハラとしてしまう危うさだ。
コーヒーがこぼれたらどうする?商品が濡れそうだけど大丈夫?
一方、別のラックでは、たまたま通りかかったお婆さんが「まぁ刺繍が可愛いわぁ」と言いながら、数万円する真っ白なブラウスの袖を思いっきり雑に引っ張って眺めている。やがてパッと手から離されたシルクのブラウスは、ハンガーごと引っ張り出されたまま、撃たれた白鳥のようにしなだれていた。
たった数分間なのに、このように心がザワザワする風景の連続だった。
「イベントに出店すると毎回こんなことばかりだから本当嫌になっちゃうよ。売れないし出店料で赤字になるし。でも、あなたみたいに真剣に商品を見て、良さをわかってこうやって買ってくれる人が時々いるおかげで気持ちは救われるけどね」
店主がズボンを丁寧に畳みながら話すのを聞きながら、商売の厳しさも教えられた気がした。
「ご自由にお入りください」
街を歩けば、ほとんどの店がそう言っているように見える。
わたしは長いこと、入店料や予約制のシステムがあるお店は、生半可な気持ちで店に立ち入り、商品を雑に扱う来店者を抑制する、いわば店側がお客を〝ふるい〟にかけるための仕組みだと思っていた。
けれど、今は少し違う気がしている。ふるいにかけられているのは客ではなく、「この空間をどう扱うか」という態度なのだ…と。
入店料とは、「この空間では商品を丁寧に扱います」という目に見えない約束に署名するようなものなのかもしれない。予約制とは、「偶然ふらりと来た人」よりも、「今日、この店に並ぶものと向き合う時間を選んだ人」を大切に迎えるための店の体制なのだ。
これはある意味、間口が狭くはなるが店主とお客さんの精神衛生を重視したビジネススタイルなのだと最近気づいたのだった。
商売の理想と現実を考えると、古本屋は大変な小売業だ。
今の時代、本を手に入れること自体は難しく無くなった。インターネットで検索すれば、絶版になった本や遠い昔に出版された本はお金さえあれば入手することができる。欲しい本を確実に手に入れたいという意味では、昔よりずっとずっと便利な時代になった。現に、わたし自身もネットや通販の恩恵を受けて古本趣味を楽しんでいる一人である。
効率だけに着目すると実店舗の古本屋という商売は分が悪い。ネットには大量の商品があり、何より本のタイトルを入力すれば簡単に価格も比較できる。
小さな店の限られた棚では、品揃えで勝負することは難しい。
それでも私は、実店舗の古本屋には非効率さそのものに価値があると思っている。ネットでは得られない体験、それは、宝探しのような時間だ。
高価な本や希少本だけが宝なのではない。財布に余裕がない人が、たまたま手に取った数百円の一冊を「これは自分のためにここにいた本かもしれない」と感じる瞬間。その小さな発見こそ、お店の空間が生み出せるものなのだと思う。
目的の本ではない一冊に足を止めること、知らない著者の背表紙に呼び止められること、欲しい本の名前すら知らない自分と出会えること。
遠回りする為の棚の存在は、古本屋の最大の魅力だ。
本は、効率よく最短で必要な人のところへ届くべきか、まだ必要だと気づいていない人の前に偶然現れるべきなのか。両方とも正解だと思う。
わたしは、後者のための場所を、街の片隅に残したい。
本を探す時間そのものを誰かに渡したい。
もちろん、これは綺麗事だけでは続かない商売というのもわかっている。
家賃もかかるし、売れない日の方が圧倒的に多いだろう。理想だけでは店は維持できない。だからこそ、現実と向き合いながら、それでも「本との偶然の出会い」を提供する方法を考え続けたい。
そして同時に、一冊の本を抱えて、「今日はいい日になりました!」と帰っていく、まだ名前も知らない誰かの来店をシミュレーションすることを怠らないことがわたしの課題だ。
わたしは気が小さいので、きっと、1日の中で100人のお客さんが気持ちよく帰っても、1人のお客さんのマイナスな出来事が夜まで残るタイプだ。 人間の脳は、と言うより、わたしの脳は、どうも心温まる体験より不安や心配を保存する傾向にあるらしい。 だがそれは、「困ったお客さんが来る店」ではなく、「本が好きな人が集まる店」を想像する練習が絶対的に足りてないからだ。
開店したら、迷惑なお客さんが来る日もあるだろう。もしくは来店客が0の日の方が多いかもしれない。でも、「こんな本に出会えて嬉しい!」と目を輝かせる人もきっと来るはずだ。
私の古本屋は、まだ存在しない。でも、心配だけは毎日ちゃんと営業している。 店を始める前から、私はすでに何百人もの困ったお客さんを接客している。
全員、私の頭の中で。
現実のお客さんには、できればその記録を更新してほしくないけれど、もし更新されても、そのときはまた一篇のエッセイが書けるな、とも思っている。
そう考えると、わたしの心配性も案外、立派な商売道具なのかもしれない。