コラム

2026.06.29

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カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第54回【エフェメラるを楽しんで】

エフェメラるを楽しんで

 

最近、しみじみと感じる。紙には、夢が詰まっている、と。
「明日、燃えるゴミ出す!」と書かれたが紙きれがあったとする。
もしくは、「買う物 ネギ,かぼちゃ,歯ブラシ」と走り書きのメモがあったとする。これらを道端で拾ったとしたら、すぐさまゴミ箱行きだろう。

だが、もしそれがかの有名な、例えば「芸術は爆発だ!」の生みの親である岡本太郎が書いたものだったら?もしくはメジャーリーガーの大谷翔平が書いた物だったら?
その事実が分かった瞬間に,この紙きれには著名人直筆という〝貴重な価値〟がつき、オークション等で高価で売買され、どこかの記念館で,どこかの富豪の邸宅で,額装された姿で厳かに飾られる未来へと変化するのだ。
無論、岡本太郎も大谷翔平もそんなメモは絶対に書かないだろうから,ちょっと無理のある例え話になってしまったが、とにもかくにも、紙という存在は時として我々の目には見えないものを映し出してくれる面白い存在でもあるのだ。

人から見ればただのゴミであるような紙クズに、ロマンを感じさせる素晴らしい名称があるのは皆々ご存知だろうか。
それは〝エフェメラ〟という呼び方である。長期間の仕様と保存を考慮しない一時的な筆記や印刷物を指し、例えば手紙・写真・チケット・パンフレット・チラシ・商品ラベル・包み紙といった物が挙げられる。
古本界やコレクターやマニアの間ではこのエフェメラという単語は昨今メジャーになりつつあるが、それは俯瞰してみるとやはりまだまだマイノリティな認識だ。個人的にはもっともっと広く認知されて欲しい言葉でもある。
と言うのも、その価値や魅力に光が当てられぬまま人知れず廃棄される運命にある印刷物たちが恐らくこの世の中にはごまんとあるからだ。

ちなみに古本業界で、ある絶版の文庫本(新刊書店に既に流通していない)についてこんな話もある。
本に〝帯〟が付いているか付いていないかで数万円売値が変わるそうだ。
一枚の、あのペラっとした紙の存在が…その本の価値を左右するなんて!
だが、確かに人によっては読むのに邪魔だからと買ってすぐに本の帯を取ってしまうケースも多いだろうし破れてしまったら破棄することがほとんどだろう。だからこそ後世に貴重な価値がつくのだ。たかが帯、されど帯…。

わたしの場合、とある紙物趣味を持つ人から、昭和40?50年代のスーパーのチラシ複数枚を、まとめて数千円で譲っていただいたことがある。
人から見れば「紙クズにお金出すの??」と狂気の沙汰かもしれない。
だが、実物を見ればその行為に納得する人も多いだろう。今の時代では絶対にもうお目にかかれないエネルギッシュなデザインがその紙面には凝縮されているからだ。現代のデジタル機能を使って手軽に作られたものと違い、写真ひとつにしてもフォントの書き方にも「お買い得ですよ!来なきゃ損ですよ!」というメッセージを消費者に伝えんとするアグレッシブな気概が放たれているのだ。
何より、販促物であるスーパーのチラシなどは真っ先に捨てられる運命にある存在だからこそ、数十年前のものはある意味貴重な資料でもある。
売主のお爺さんは生粋のコレクター気質の御方で、自宅にはいつの時代からあるのか不明の新聞から無料の広報誌まで、ありとあらゆる印刷物が自宅に溢れかえっているらしく、ご近所さんからは「ゴミ屋敷」と呼ばれているらしい。
私のような紙物好きからしたらお爺さんの家は「お宝御殿」のようなユートピアにしか映らないのだが。

また、昭和の時代に、今では姿をあまり見なくなった公衆電話ボックスにペタペタと貼られたテレクラのピンクチラシも収集ジャンルの地位を確立しており、現在では熱狂的なコレクターも多く、なかなかの高価格で取引されている例もある。
わたし自身も何枚か手元に所持しているが、名刺のようなサイズで一枚あたり500円で購入した覚えがある。今はなき昭和のギラついた空気が圧縮密閉されたかのような紙面は、ただ眺めるだけで楽しい。

今当たり前のものが数十年後には当たり前であるという確証はどこにもない。
そういった意味で、エフェメラには夢とロマンが詰まっているのだ。

さて、ここまで書いた時点で、「わたしは古本だけでなく紙物も大好き!」という事実も存分にアピールしたことになるが、古本趣味と異なり、紙物趣味の最大のメリットはその気軽さにある。
古本と比べると紙は重くない、嵩張らない(場所を取らない)ので保管にも困らない、故に持ち主の負担になる点が少ないのだ。
また、自分の審美眼を頼りに収集を楽しむことができるのも魅力の一つだろう。
古本や古書は、インターネットを調べればその本がいくらで売られているかはたちどころにわかるし、ある程度の情報は把握することができる。
だが、紙物はじめ、印刷物にはそのジャンルの幅広さ奥深さもあってか、まだまだ決まった価値が可視化されていない傾向にある。
もしかしたらこれから新たに価値が見出されて注目されるものもあるかも知れない。

先日、紙物の趣味を通して知り合った古物商の方からお誘いをいただき、大阪で開催された紙に特化したイベントに出店した。
長年ちまちまと買い集めてきたものの、アト坊が生まれて以来押入れの奥深くに仕舞い込んでいた紙物の一部をこの機会に放出することにした。
この貴重な機会に、可視化されていない紙の価値をもっと知りたいという勉強の気持ちが強かった。

さてそのイベントは、江戸時代から現代のものまで、まさに紙物好きには夢のような紙々の祭典であった。
燻銀のような渋さが滲み出る古文書に色彩豊かなマッチラベルや広告、美しい錦絵にユーモア溢れる楽しいデザインが散りばめられたスクラップブックなどなど、ありとあらゆるエフェメラと呼ばれる物たちが出店者たちのブースに並べられた。

開始と同時にゾロゾロと入場する紙者(紙を愛する人)によってやがて会場は静かな熱気に包まれ、
カサカサカサ…カサ…カサカサカサ…
と、指先で薄い紙を探る音が始終響き渡った。

「かなわんわ、かなわんわ、脳みそが大変なことに…」と苦しいのか嬉しいのかよくわからない表情のお爺さんがずっとボソボソと呟きながら指先を繊細に動かし大量のハガキを探る愛らしい姿を目の前に、わたしは幸福な気持ちに浸っていた。
一方、セミの標本写真が印刷された古い絵葉書を100円で売っていたわたしのブースの隣では、数十万円の古地図が売れていたり戦前にスクラップブックが数万円で売れていたりとプロフェッショナルなエフェメラワールドが繰り広げられており、これもまた興味津々に観察させてもらった。
こうした紙物商売のプロの方々のやりとりは本当に面白く勉強になるので、TV番組などでドキュメンタリー番組を是非作って欲しい。

このイベントでは、最後には自分もお客として買い物を楽しませてもらい、50年近く経った見知らぬ子供が描いたクレヨン画や見知らぬ青年のスケッチブックなど色々購入した。

考えてみると、アト坊が画用紙に描いた落書きもずっと保管しておけば、いつかの時代になんらかの形でこんな風に見知らぬ誰かの元に渡り、楽しんでもらえる存在になるのかもしれないな。そんなことをフフッと想像した。

メルカリで見知らぬ子供が描いた絵(そのヘタウマな世界は独特だ)が数百円で出品され、それを購入した人がいる証であるSOLDOUTの表示を見かけると、エフェメラを楽しむ背景には、時代が古い新しいは関係ないとしみじみ感じる。
「なんかいいかも、なんか面白いかも」という個人のささやかな着眼点が新たなエフェメラ文化を作っていくのだろう。
ちなみに、物事が移ろいやすく、儚いことを英語で〝エフェメラル〟という。ものすごくかっこいい響きだ。

〝エモい〟の次に、儚いものたちに目を向けて愛おしむ心情を表現した〝エフェメラる〟が流行る日がやって来ることをいちエフェメラー(紙物好き)として強く望む。