2025.08.27
コラム
人と接した際に、「〜そうですね」と言われて、それが当たっている試しがついぞ無い。私は、私が思っている以上に他者からは真逆に映っているらしい。
その「〜」には様々なフレーズが当てられるが、例えば、「DIY得意そう」だとか「ライブによく行ってそう」とか、最も多いのが「友達が多そう」あたりだ。きっと活力みなぎる社交的な人間に映っているのだろう。
いずれも否、である。工作なんて面倒なものは絶対やらないし、芸能や音楽には疎いし、何より〝知り合い〟はいるとしても友人と呼べるほど普段から親しくしている人はほぼいない。ママ友も相変わらず0だ。
私は人と話すことが苦手ではないが得意ではない。だが相手に話しかけられたら、その苦手意識を相手に悟られて不快に思わせては申し訳ないと、困ったことにいつもハイテンションに受け答えをしてしまう。そうしてドギマギしながらも喋る口が止まらず、結果的に〝お調子者〟のイメージを相手に植え付けてしまうようだ。
会話そのものは楽しめているが、とにかくものすごく莫大なエネルギーと色んな神経を最中にフル稼働するのでドッと疲れる。
また、容姿や態度に毅然とした空気を纏っていないからなのか、よく下に見られた対応を受けたり、上手く利用されたりといった苦い体験をすることも少なくない。人と関わるという行為は決してシンプルではなく、どんな物事よりも複雑でいて、そして時に楽しかったり時に大変だったりする。考えさせられることが多くて、疲れてしまうことも多い。
だから私は1人の世界に埋没できる本が何より大好きになったのだろう。
先日、なんとなく訪れた無印良品でちょっとした〝気づき〟があった。
文房具コーナーをとりあえずチェックする私はあるものを発見して目が離せなくなった。あるものとは、販売されているペンの書き具合を確かめる試し書きのノートである。商品棚のそばに設置された長机に見本のペン数本と試し書き用のノートが2冊おかれていた。既に沢山の人々の手により広げられた形跡があり表紙には折り皺が刻まれていた。
吸い寄せられるようにノートを手に取り中身を確認する。
中には、なんとまぁ素晴らしい混沌とした世界が広がっており、私は夢中になって次々とページをめくっては笑いを漏らした。
「ママだいすき」や「弟ができて嬉しい」といった幼少の書き手によるほのぼのとしたコメントをはじめ、「彼女欲しい」「犬を飼いたい」「地区大会優勝できますように」といった七夕の短冊ばりに願望がしたためられていたり、ア○パンマンやド○エモンといった国民的キャラクターがエッジの効いたアレンジを付け足されて描かれている。それらに対して「面白い!最高!」とツッコミのコメントが添えられているのも微笑ましい。見知らぬ者同士の温かい交流が繰り広げられた紙面に愛おしさが込み上げてきた。
あるページには絵しりとりが繰り広げられ、それぞれ描いた日付が記されており、脈々と今日まで次なる他者に見事に引き継がれていた。最初に始まった日付から察するに約1ヶ月間も継続されている。すごい。この尊い連鎖を断ち切ってはなるまいと、気がつけば試し書き用のペンを持ち、見知らぬ誰かが描いたスイカの絵の隣にカニの絵を書き足していた私だった。
ひとしきりノートを愛でた後、全国のこうした試し書きコーナーを巡っては「ほうほう…」と目を細める日々を送りたいという感情まで芽生えてきたのだった。
匿名だからこその自由!
そう、匿名の魅力を改めて目の当たりにしたのだった。巷において匿名と聞くとどちらかというとマイナスなイメージが多いかもしれないが、私が出会った試し書きノートには理想の美しき匿名世界が詰まっていた。
日常生活において匿名的存在、要は個人という認識で縛られずに過ごすことはかなり難しい。
だがそれでも、このモヤモヤを書かずにはおれない。古本屋においてだけでも是非〝匿名〟の存在でありたいと常々思っている自分の気持ちを。
例え週5で通っても毎回初めてのお客さんのように扱われたい。
私はほうっておかれるのが好きだ。無視するとか冷たい態度といったマイナスな要素を含まない〝温かい無関心〟が理想かもしれない。
頻繁に近所の古本屋にフラッと寄り、黙々と背表紙と向かい合う時間を過ごしたいのだが、意外と地元ではなかなかそれが難しい傾向にあるなと感じる。
個人でやっているお店に限ったことではないと思うが、店主が優しく社交的な人だった場合、来店回数が多くなるにつれて自然と挨拶だけで終わらない会話が繰り広げられるようになり店主とお客の間にある種の繋がりが生まれる。
常連扱いに気持ち良さを感じる人も多くいると思うが、私はその逆だ。己の存在を認識されることに居心地の悪さを感じるのである。
なので店主との交流が発生すると途端にその店に訪れることに緊張感が生まれ、つい足が遠のいてしまう。古本漁りに集中できなくなってしまうという理由と、手ぶらで退店できないという自分のエゴと向き合わねばならない事態になるからだ。
例えばそれが旅先で訪れた見知らぬ古本屋というシチュエーションであれば、自分土産としての記念的な一冊なのでそんな心持ちにはならないが、しかしこれが何度か訪れて多少店主とも交流がある地元のお店の場合だと心情がだいぶ違うのである。店内を一周したあたりで欲しい本が見当たらなかった際に「どうしよう…」という謎の焦りが徐々にで始める。無理矢理にでも〝買う本〟を探すことに意識が集まり、本来の楽しい古本探索から離れた状態になってしまうのだ。ひとしきり店主と会話を繰り広げた後となると尚更に。
そんな話を夫にポロリと漏らすと「フッ…君は本当に自意識過剰、見栄っ張りだね。君ぐらいだよそんな意識になるの。」と鼻で笑われてしまって、もう項垂れるしかなかった。
でも自分が仮に店主の立場だったら常連客が手ぶらで店を出たら絶対こう思ってしまうからだ。
「あぁ…あの人、今日は冷やかしか」
「欲しい本なかったのか…ショボーン」
やっぱりそんな風に思われたくない!お店を応援したいから買う!
でもそれって果たして自分は楽しいのか?
自問自答の連続だ。
こんなものの考え方をする人間なので、前職の接客業時代には日々葛藤の連続だった。
自分がお客さんの立場だったら店員にほっといてもらえる方が断然居心地が良い。買い物にアドバイスは無用、自分の目と審美眼を信じて選ぶのでお構いなく、という心根の人間だったので、接客を受けているお客さんの今の心理状態はどうなんだろうといつも想像してはそわそわしていた。
だが、接客体験を通して、店員との交流があるからこそ買い物が楽しめる人がいるということ、アドバイスを貰わないと買い物をする自信がない人の存在の多さも同時に知ったのであった。そして、常連扱いという特別な待遇を好ましく思うお客の心理というものも学んだ。
顔見知りになった古本屋さんからある日SNS経由でメールが届いた。
「こんな本が入荷しました。あなた好みだと思ってご連絡しました。よろしければ取り置き、それか代引きでお送りすることもできますよ。」
基本的に欲しい本は自分の好きなタイミングで直接出会うべくして出会うものだと信じて疑わない古本運命理論を持っている私だったが、「先方がせっかく連絡をくれたのだから…」と断れずに特に欲しくも無かった本を購入した過去が何度かある。今でも、こういった連絡に対して相手の気持ちを汲み取りながら断りの返事を書くことに苦心するケースは時々ある。
付き合いや義理で大して欲しくない本を買ってしまったことがこれまでどれだけあったか。最近、自宅の蔵書整理をしながら痛感している。
そんなわけで、自宅のソファで寝そべりながら空いた時間に携帯片手に黙々と気になる古本の情報をリサーチして古本屋のサイトでネット注文する方が気楽で楽しい。時間にも金銭的にも体力にも余裕がない子育て中の自分の身にはこの匿名スタイルの古本狩猟が一番ストレスがなく合っているのだろう。
一方、このままネットでの古本を買うのが当たり前になって、20代の頃のように貪欲に人との交流で受ける刺激や新たな発見から何かを得ようと意欲が満ち溢れていた過去を忘れてしまいそうになるのは怖いなとも感じている。
今後自分に必要なのは何者にも動じず揺るがない強い意志かもしれない。
つくづく自分という人間の偏屈さを感じながら、社交的な店主がいる地元の古本屋に今日も立ち寄ることもできずに横目に見ながら通り過ぎるのだった。
——————————–
カラサキ・アユミ
1988年福岡県北九州市生まれ。
幼少期から古本の魅力に取り憑かれて過ごし、大人になってからは大好きな古本漁りの合間に古本にまつわる執 筆活動を行うように。
2024年現在、3歳になる息子にも古本英才教育中。
著書に『古本乙女の日々是口実』(2018)、本エッセイ「子連れ古本者奇譚」に書き下ろしを加え書籍化した『古本乙女、母になる。』(2023)がある(共 に皓星社)。
——————————–