コラム

2025.07.31

コラム

カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第43回「泥棒カミングサマー」

 

悔しい。恨めしい。

この間まで、この感情がひょこっと突然顔を出してはまた心のどこかに隠れるといった状況が続いていた。

1日1日が過ぎ去るたびに負の感情の濃度は幾分薄くなりつつあるが、それでも真っ白なシーツについた墨汁の染みが洗っても洗っても跡が消えずに薄っすら残っているような、そんなモヤモヤとした気持ちがこびりついていた。

私がこんな風になったのは連日続く異常な暑さのせいではない。

 

なんとこの夏、我が家に泥棒が入ったのである。

邪悪なものとは無縁の穏やかで平和に満ち溢れていた日々を過ごしていたからこそ、この突然の事件はとてつもなく衝撃的だった。

 

正確に言うと、侵入されたのは自宅の敷地内(庭)で、被害に遭ったのは家庭菜園の農作物(収穫直前のトウモロコシ9本)だが、宝石や引き出しの中の現金を盗まれたのと同様にショックは大きかった。

第一発見者はアト坊で、私がいつものように鼻歌を歌いながら早朝に庭先で洗濯物を干していると「ママー!トウモロコシがなくなってるぅぅぅ!」と走って知らせに来たのだった。裏庭に駆けつけると、昨夜まであったトウモロコシ畑が忽然と消えており、鳥肌がブワッと立った。

電話で被害を相談するや否やすぐさま駆けつけてくれた地元の若い警察官2人が(まさかわざわざ来てくれるとは思わなかった!)、丹念に痕跡や現場確認をしてくれ、「衝動的に犯行に及んだというよりは事前に何度かチェックに来てる感じがしますね…あまりにも作業が綺麗過ぎる…」と呟いたのが更に私を動揺させた。

周囲に民家も少ない山沿いに立ち、よっぽどのことがない限り人の出入りがない地域である。

高台にある我が家のフェンス越しに見える、風にそよぐトウモロコシ達の髭を目ざとく見つけた犯人は虎視眈々と好機を狙っていたのであろうか。

皆が寝静まった深夜の、それも防犯カメラや感知ライトの死角を狙った狡猾な犯行で、鍵の付いた門扉を乗り越えた盗人は、150㎝は育っていた立派なトウモロコシの茎を根こそぎ引っこ抜き、その場で無駄な葉を毟り打ち捨て、たわわに実った実だけをもぎ取って去ったのである。防犯対策が抜かりなかったコーナーに植っていたトマトやきゅうり、ナスにオクラといったものたちには一切手を付けていなかったところが余計に腹立たしい。というか、「この犯行は知恵のある人間がやりました!」とあからさまな感じがして、とてつもなく気持ちが悪い。

ものものしい雰囲気のなか、アト坊だけは制服姿眩しい警察のお兄さんたちの格好良さに始終嬉しそうに眼差しを注いでいたのだった。

 

それにしても最大の被害者であり生産者である夫の悲しみは計り知れなかった。たかがトウモロコシという勿れ、夫にとっては短くはない月日をかけて種から丹精込めて育てた愛の結晶である。せっせと毎日水やりに励み、幾度もホームセンターに材料を買いに走っては作物が無事に育つようにと囲いや支えを自作したり害虫を駆除したりと、並々ならぬ情熱が注がれていた。

そして、よりによって…盗まれる数時間前に夫はその日の晩酌のお供にと一本だけ収穫してその実りの美味しさに舌鼓を打っていたのである。

「俺が育てたトウモロコシ…!甘い!最高!」と蒸し立ての一粒一粒を愛しそうに味わいながら缶ビールを飲む夫の表情は幸福が溢れていた。

「明日からは2本ずつ収穫して食べるんだ!今週はトウモロコシウィークだ!」

 

そう叫んでいた数時間後の深夜、日々の労働の疲れを癒してくれるはずだった夫のささやかな楽しみであるトウモロコシ達は何者かの手により一瞬にして姿を消したのであった。

 

このむごい泥棒事件があってからというもの、復讐心に駆られた夫は、暇さえあればネットで防犯アイテムの情報を取り憑かれたように読み込み、Amazonのページを開いては指先を高速で動かし続けた。連日届く防犯アイテムの数々。それらは続々と設置されていき、瞬く間に鉄壁のセキュリティが築かれた。その効果は凄まじく、庭の広範囲で少しでも温度の変化や動きがあるとすぐさま夫の携帯に〝侵入者感知〟通知が届くようになり、近所の野良猫が庭を通り過ぎる度にビカァァ!!と庭に眩しい光が降り注ぎ、まるでライブ会場の舞台装置のようであった…。

 

そうした事態となり、バタフライ効果でとばっちりを受けることになったのは私である。よりによって夫にバレずにひっそりと楽しんでいた古本通販道楽の危機を迎えることになったのである。

購入した古本を一旦保管するセーフティスポットにしていた納屋がある裏庭にも、此度の一件のせいで精度の高いカメラとライトが新たに設置された。そのことをうっかり忘れていたある日の昼下がり。いつも通りポストに届いた古本(泥棒騒ぎ前に注文していた品)をコソコソ運び込もうとしていると頭上からウィィーンと操作音と共に「なにをしているぅぅ〜〜」と夫の声が突如響き渡り、心臓が止まるかと思った。

ビクビクしながら見上げると赤いライトが点滅する丸いカメラがスナイパーのようにこちらを向いている。「ヒッ」と私が声をあげると「なんでもお見通しだぞ…」と言わんばかりに夫の「ムッフフフフ」という低音の不気味な笑い声が裏庭に降り注いだ。

その夜、帰宅した夫から録画されたその時の画像を見せられると、画面には両手に古本を抱きしめて怯えた表情でカメラを見上げる私の姿がバッチリ映し出されていた。それはもう、まごうことなき完全に不審者だった。遠く離れた場所から遠隔操作できるマイク付きの防犯カメラの恐怖を、まさか一番乗りで味わう羽目になるとは想像もしなかった。

 

それと同時に「悲しみに打ちひしがれている俺を差し置いて変わらずに古本を買うのか君は。」と夫に思われるのはちょっと嫌だなという感情も出てきたのだ、困ったことに…。これはこれ、それはそれ、と割り切れるほど私の心の芯は強くなかった。そして今でも思い出すだけで悲しくなるあの引きちぎられたトウモロコシの茎。あの痛ましい光景を忘れて今まで通り古本ショッピングを楽しむなんて…!

こうして喪に服するように古本買いというささやかな楽しみを当分慎まざるをえなくなったのだった。(でもそれも一時的なもので、来月になる頃には開き直り普通に買いまくっているのだろうが。)

 

それにしても今回の一件のせいで、被害にあった裏庭を見るたびに、古本を買おうとするたびに、こちらをチラ見してくる負の感情が、腹立たしい

突然我が家の幸福に土足で上がり込み、トウモロコシだけでなく我が心の安寧(古本趣味)をも奪い去った悪者が今ものうのうとどこかで過ごしているであろう事実が憎い!

 

ちなみに私の泥棒体験は今回が初めてではない。

小学生の頃に実家で一度泥棒被害に遭っているのだ。

家族全員が出かけていた日中、当時同居していた祖母がベランダの鍵をうっかり閉め忘れていたのが運の尽きで盗人はめざとくその発見を逃さずに我が家に侵入、屋内をあれこれ物色して母の大切にしていた宝石や指輪、そして引き出しに入れていた数万円を盗み去って行ったのだ。

その後、警察の尽力により複数の家で同様の行為に及んでいた犯人は無事逮捕となったが、当然のことながら盗まれたものは一切戻って来なかった。

どこにでもある住宅密集地にある平凡な建物(実家)で起きたこの一件で、その際周囲の人達から幾度もいただいたのが「うっかり犯人に遭遇して怪我を負わされたり命を取られなくてよかったねぇ」という言葉だった。

気に留めていないだけで、我々の日常は恐ろしい世界と隣り合わせなのだと気付かされ子供心にゾッとしたものだ。

 

今回の泥棒騒動も踏まえて、物理学者 寺田寅彦の言葉ではないが、〝恐怖は忘れた頃にやってくる〟という気持ちを常に持って生活していかなければと改めて痛感したのであった。

 

さて、トウモロコシが植えられていた裏庭には瞬く間に雑草が我が物顔で生えてきた。そこで最近、悲しみと向き合うように家族総出で開拓作業に精を出した。

夫は次に何を植えようか思案中のようだ。少しずつショックから立ち直っている様子に安堵を感じながら、同時に、新たな古本の隠し場所を模索する雑草根性の自分自身にも嬉しい復活を感じている。

 

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県北九州市生まれ。

幼少期から古本の魅力に取り憑かれて過ごし、大人になってからは大好きな古本漁りの合間に古本にまつわる執 筆活動を行うように。

2024年現在、3歳になる息子にも古本英才教育中。

著書に『古本乙女の日々是口実』(2018)、本エッセイ「子連れ古本者奇譚」に書き下ろしを加え書籍化した『古本乙女、母になる。』(2023)がある(共 に皓星社)。

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