コラム

2025.04.28

コラム

カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第40回「古本屋ゆき夜行バス」

 

人生を終えるまで絶対に経験することのない出来事は途方も無く多い。

 

例えば私の場合、エベレストに登頂するとか南極に行くとか、あげたらキリがない。だが、それらの体験は自分にとって現実味がない事柄だからこそ執着も湧くはずもなく、結果悔しいとか残念と思うこともないまま月日は流れていく。

一方、ほんの少しの気合いとそこそこの体力、そして多少無理をすれば捻出できるお金さえあれば、出来なくもない体験というものも圧倒的に多い。

幼い子供がいる母親の場合だと、家族に子供を託して思い立って1人旅に出るという突飛な体験が一番わかりやすい例の一つかもしれない。

だが、そういったことは強い動機や背中を押してくれるようなキッカケがない限り実行に移すことはなかなか難しいものだ。日常から離れるハードルが高すぎず低すぎずという体験ほどその最初の一歩を踏み出す事は案外難しい。でも叶えようと思えば叶えられる、手が届く体験だからこそ欲したり憧れの気持ちも抱いたりてしまう。

 

前置きが長くなってしまったが、つい先日、まさにその体験を勢いで実行してきたのだ。

奇しくも、ある古本屋の閉店がきっかけとなったのだが、自分の人生において体験すべき出来事だったと断言できる。

 

ある日、古本趣味の大先輩である古本屋ツアーインジャパン小山力也さんから一通のメールが届いた。それは埼玉県にあるN古書店についてのもので、今月末で閉店の告知が出されていたのは常連のお客さんによるS NSの情報で既になんとなくは知っていたものの、その詳細は知らぬままだった。小山さんからのメールにはお店の状況が綴られていたのだが、ある内容に私は目が釘付けになった。

「店主のオヤジさんがカラサキさんのことを気にかけていました」

 

その一文を何度も読み返しながら、2年前に初めてN古書店に訪れた日のことを思い出していた。

レジを済ませた去り際に「あなたのこと知ってます。書いたものも全部読んでるよ。これからも古本をいっぱい楽しんでください。」と、店主さんがポツリと話しかけてくださったのだ。ぶっきらぼうだが優しく笑うオヤジさんだった。

あれから再訪もできぬままの自分を、今も変わらず気にかけてくださっていることを知り胸が熱くなった。

 

これはもうオヤジさんに最後に挨拶に行かねば!そして古本をたくさん買いに行かねば!でないと、きっと私は一生後悔する…!

 

止まらない胸の内を早速夫に伝えると、「それだったら」となんとあっさり快諾してくれた。

行くのだったらすぐにと、すぐさま現地に向かうための交通手段を調べた。飛行機だと高額すぎるし、新幹線だと東京行きの最終の発車時刻に間に合うよう家を出ることが難しかったので、夜遅くに出発する夜行バスが最良の移動手段として挙がった。

そして翌朝、当日残席が1となっていたバスチケットを滑り込みで予約し、巷でキングオブ夜行バスと称されている東京〜博多を結ぶ〝はかた号〟で乗車13時間超の旅に出ることにした。実はこのはかた号、かねてから一度挑戦してみたかった存在でもあったのだ。

 

昨日今日で決まった弾丸旅だったが、子供に納得してもらう為に、家を出る際のセリフもきちんと用意して臨んだ。

「ママは病気(註 古本病)の薬(註 古本)を買いに、遠くの病院(註 N古書店)に行ってくるから、パパと良い子で待っててね」と伝えると「うん。待ってるね。ママ、頑張ってね!」と真剣な表情で玄関口で手を振り見送ってくれたパジャマ姿のアト坊であった。

 

いざ乗車したバスの車内は思ったよりも快適そうで、自分の座席番号を見つけて素早く着席した。

周囲を見渡すと各々乗客がフットレストを活用して足を伸ばして気持ちよさそうに寛いでいる。よし私も…といそいそと確認してみると…なんとフットレストが上手く作動せず何度試しても固定されずに下がるではないか。見回りに来た乗務員さんに点検を頼むと一言「あぁ…こりゃ故障してますね…」

 

なんと!長時間の車中における足の負担を軽減するためのフットレストが使えない⁉︎これだけ座席がある中で唯一故障した席を当てた自分の不運力の強さにバスの天井を仰いだ。

動揺している私に「すいませんけど…いいですか(我慢してもらえますか)?」と全然申し訳なさそうではない表情で形だけ問いかけてくる乗務員のおじさんに「いやいや困りますよ」とはもちろん言えずに「頑張ります!」と小学生のような威勢の良い返事しかできない私であった。

「明日、N古書店に無事に辿り着けさえすればもうなんだっていい…!」

 

だが、やがて消灯時間を迎えバスの車内が暗闇に包まれると更なる不幸が私を襲った。

前の座席に座るおじさんが突然勢いよく背もたれを最大限にリクライニングしてきたのである。お腹に抱えていたリュックがズシャァ!と煎餅のようにプレスされると同時に圧迫感が我が身を襲う。「どうぉぉぉ!!」心の中で叫んだ。周囲を見ても、長い旅路だからとお互い気を使い合って座席を使用している結果、そこそこの傾斜でしか座席を倒していない人ばかりだというのに。よりによって遠慮もお構いなしの人物が前の座席に当たってしまったのだ。暗闇の中、眼前に広がるのは圧倒的な威圧感を放つおじさんの頭頂部。

「大丈夫、あと10数時間後にはN古書店に辿り着いているのだから…!」

 

だが二度あることは三度ある、ご丁寧に最後の不運もしっかりやってきた。

夜が明けた頃、隣に座っていたおばあちゃんがカーテンをほんの少し開けて途中のサービスエリアで購入したと思われる助六寿司を頬張りながら車窓を楽しんでいた。一見するとほのぼのとした情景だったが、その様子を確認した私は苦悶の表情に満ちていた。

開いたカーテンの隙間から注ぎ込む太陽の光の一筋が我が顔面(しかもちょうど目元に)に命中していたからだ。寝不足の朝にはたまらない仕打ちである。

虫眼鏡で太陽の光を一点に集めて白い紙を燃やすが如しの、もう刺すような眩しさが目を閉じていても瞼を通して眼球に貫通してくるのである。

しかもカーテンを開けているのはそのおばあちゃんだけで、まだ薄暗い車中で朝日の犠牲者は唯一私だけであった。

 

初めての長時間夜行バス体験において奇跡とも言い得る偶然の連続。

私は確信した。いや、強く思い込むことにした。

「こんな貴重な経験、一生に一度しか体験できない!」と。

 

土曜の朝、到着予定時刻ぴったりに新宿バスターミナルに停車したバスから誰よりも早く下車した私は、顔も洗わず朝ごはんも食べずに一目散に埼玉方面の電車に飛び乗りがむしゃらに移動した結果、ついにN古書店の看板の下に立っていたのだった。開店時間ジャストの到着だった。

 

ドキドキしながら店の引き戸を開けると、店内整理をしていたオヤジさんといきなり目が合い、気づけば話に花をさかせつつ3時間近く古本によって埋め尽くされた店内で漁書作業に没頭していたのであった。

 

やがて会計が済み古本を受け取るのを待っていると「指が乾燥して袋が開けられねぇや…」と本がうず高く積まれた帳簿の裏からオヤジさんの呟きがポツリと聞こえてきた。手元を覗いて見ると絆創膏だらけの指先を拒むようにビニール袋がカシュッカッシュッと音を立てていた。毎日本の整理に酷使しているであろうオヤジさんの手は擦り切れて傷だらけだった。

「あ!私がやりますよ」そう言って思わず助太刀に入った。

 

思えば、2年前に初めて店を訪れた日も全く同じやりとりがあったのだ。

あれからオヤジさんの指は傷が癒える暇もないくらい一切変わらず古本に触れ続けていたのだ。だが、これからはきっとこの手の傷が癒えていくことになるのだ。寂しいけれど。

「ありがとう。どうぞお達者で。」と店の外まで見送ってくれたオヤジさんの姿に名残惜しさを感じながら、戦利品ではち切れそうになったビニール袋を両手に引っ提げてお店を後にしたのだった。

 

さぁ目的が済んだらあとは帰るのみである。

どうせやるなら徹底的にと、帰路も夜行バスをあえて選んだ。

夜行バスで到着したその日に再び夜行バスで帰還する。なんてクレイジーだろうか。

 

明朝、地元に到着したバスから下車した瞬間に「ママーー!」と聞き覚えのある声が停留所に響き渡った。

笑いながら駆け寄ってきたアト坊をギュッと抱きしめて1日ぶりの再会を喜び合う。そばで乗客の荷下ろしをしていた乗務員のおじさんが我々の様子に微笑みを投げかけてくれた。

やがて「迎えにきたよ」と夫が穏やかな表情で歩み寄ってきた。

「ママ、病気治ったー?」と私の顔を見上げて尋ねるアト坊に「うん、もう大丈夫!治ったよ!」と伝えてから、つい夫と顔を見合わせて苦笑いした。ちょっと嘘だけど本当だ。ちなみに昨日埼玉のコンビニから発送した戦利品の古本達が今夜自宅に届くことは黙ったままでいた。

 

子供と手を握って歩く帰りの道すがら、すべすべで柔らかい手触りを感じながら、N古書店のオヤジさんと最後に両手で握手した時のゴツゴツした手の感触と温もりをしんみり思い出した。

古本屋に夜行バスで駆けつける。文字面だけだと決して珍しく劇的な体験ではないが、その時、その瞬間にしか得られない経験と感情が溢れていた。

そのきっかけを間違えなく掴めた自分の直感と行動力にどこか誇らしささえ感じながら、眠い目を擦りつつ家族と帰路についたのだった。

 

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県北九州市生まれ。

幼少期から古本の魅力に取り憑かれて過ごし、大人になってからは大好きな古本漁りの合間に古本にまつわる執 筆活動を行うように。

2024年現在、3歳になる息子にも古本英才教育中。

著書に『古本乙女の日々是口実』(2018)、本エッセイ「子連れ古本者奇譚」に書き下ろしを加え書籍化した『古本乙女、母になる。』(2023)がある(共 に皓星社)。

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