2024.09.26
コラム
先日、アト坊に会いに夫の両親がわざわざ茨城からはるばる福岡まで来てくれた。
「この間、軽井沢に旅行で行ったんだけど、泊まったペンションの近くにアユミちゃんの好きそうな古本屋さんがあったんだよ!すごい沢山本が並んでてね。いやぁ、あの風景は見せたかったなぁ。」
私と会うなり義父が嬉しそうに報告してくれる姿を目の前にして、理解ある義父母に恵まれた自分の幸福をひしひしと噛み締めた。
夫の両親は2人とも元学校教諭で、質実剛健な〝ちゃんとした人〟だ。ネジが外れた趣味行動を取る義理の娘のことも受け入れて温かく接してくれる。
今年の正月に夫の実家に帰省した際には、長らく手付かずだった納屋の中を整理してくれて「気になった本があったら持って行っていいよ。」と仕舞い込んでいた本達をわざわざ見せてくれたりと、至れり尽くせりの待遇に冬の寒さも忘れて胸が熱くなった。
ちなみに私の母も、旅先で古本屋を見つけるたびに「あんたの好きそうな古本屋があった」と写真付きの報告メールをよこしてくれる。
逆にこちらが旅行先から母に連絡をすると決まって「古本屋には行ったんかね」と笑いながら(呆れた空気も纏いつつ)質問までされる。
それに父も、昔から家族でドライブをしている道中に古本屋を見つけては「あそこに古本屋があるけど行くか?」と言って必ず寄ってくれた。(私が漁書作業をしている間はタバコを吸ったり車中で昼寝をして待機しているのだ。)
こんな風に、今日まで古本との恋愛に人生の半分以上を費やせてこられたのは他ならぬ周囲の温かい理解とサポートがあったからこそだろう。
おまけに現在は古本屋スタッフの我が身。必然的に日々店で出会う全てのお客さんは自分と同じく古本好きの人々であるから、古本を嫌う人なんてこの世にいるの?と錯覚してしまう事態になっている。
そう、今現在の私にとって、夫以外の出会う人々全てが〝古本肯定派〟なのである。
最近では、この唯一無二の古本敵である夫のことを、私が〝恵まれていること〟を当たり前だと思う人間にならない為の「くさび」のような存在なのだと思うようにしている。
肝心の我が子アト坊に関しては、まだこればかりはどちらの派閥に属すかは神のみぞ知るといった状況だが、自宅に届いたネット注文の古本の個包装を開封して中身をチェックする行為は自発的にやってくれるし(単に包紙を破る作業が好きなだけであるが…)、時々体験させる古本屋Sでの店番時間も楽しんでいる様子だし、ハタキで本の隙間にある埃を払う作業もお手のものになった。
そんな古本英才教育中のアト坊、イヤイヤ期はさることながら、現在は全ての謎を解き明かしたい期真っ只中で「なんで?」のオンパレードだ。
ソクラテス式問答法(相手の意見や考えを引き出すことで、より良い答えを見つけ出す手法。質問を通じて相手の意見を明らかにし、その意見に対してさらに質問を繰り返すことで、相手が自分の考えや信念について深く考えることを促す…うんぬんカンヌン)という、高校の時の倫理の授業で習ったうろ覚えの用語が脳裏に浮かぶ。
アト坊式問答はこんな感じだ。
「ママはなんで本が好きなの?」
「楽しいから。」
「なんで楽しいの?」
「本はいろんな世界を知れるからだよ。ワクワクさせてくれるの。」
「いろんな世界ってなに?なんでワクワクするの?」
「知らない世界…面白いから…」
「なんで面白くなりたいの?」
「それが人間というものだから…」(この辺りから自分でなにを言っているのかよくわからなくなってくる)
「なんでママは人間なの?」
「…なんでだろうねぇ」
こんな具合である。(たまにこのやり取りの最中に「ママは本を買っても読まないくせにね。」と夫が得意げにアト坊に吹聴するので、すかさずキッと睨みつける。)
しょっちゅうこんなやり取りをするので、自然と1人で過ごしている時も問答する癖がつくようになった。ネットで気になった古本を見つけてカートに入れる操作をしている最中も「なんで?」というアト坊の無垢な瞳が脳裏にチラつくのだ。
今まで何にも考えてこずに本能のままとっていた消費行動に対して具体的な意味を見出すのは、宇宙の真理に近づく作業のようで、自問自答していくうちに思考が目に見えない通気口のようなところへ吸い込まれていく。
だが辛抱強く突き詰めていくと、気持ち良く現実逃避をするために私は本を欲しているのだという答えに行き着くのであった。恋は盲目とはよく言うが、古本を買ったり古本を眺めたりしている時は俗世のことを一切忘れている自分が確かにいる。
あぁ、古本って本当にすごい。やはり、ときめきが止まらない。
そうそう、ある日の古本屋Sでの店番中に出会った若いカップルが古本の新たな魅力にも気付かせてくれた話も是非書かねばならない。
その日、レジに差し出されたのは太宰治の「人間失格」2冊。
はにかみながら男の子が手にしていたのは新潮文庫版、女の子は角川文庫版だった。
名作文学ともなればありとあらゆる出版社が様々な装丁を凝らして文庫で刊行している。表紙のデザインもそれぞれ個性豊かで違っていて、比較してみると同じ作品でも印象が全然違って見えて楽しいものだ。
代金を順番に頂戴して本を手渡す。
会計を済ませた2人が「ふふふ…」とどちらともなく顔を見合わせて小さく笑った。その様子を目の前にして、つられて私まではにかんでしまった。
「なぜ2人して同じ本をそれぞれお買い求め下さったのですか⁉︎」と猛烈に話しかけたい好奇心をグッと抑えて、私は目を細めながら2人の世界を見守った。野暮なことはするまい、ただの通りすがりの店番役に徹した。
同じタイトルの文庫本をそれぞれ手にした男女はゆっくりと店の外へ歩いていく。
恋人同士がお揃いの本を買う。なんて甘酸っぱい行為だろう。私もやりたい!味わってみたかった…そういう青春を通りたい人生だった。きっと次のデートまでに今日買った本を読み終えておくのが2人の大切な約束。そして待ちに待った当日、喫茶店でコーヒーを飲みながら語り合うのだろうか。
「僕はあのくだりが気に入ってるんだ」
「私も!あの表現って刺さるよね…!」といった感じで。
やがて自然とお互いのカバンの中から「人間失格」をそれぞれ取り出し、ページを開きながら感想を言い合う。お互いの笑顔がカップの中の水面に映し出される。あぁ、なんとも美しい時間ではないか。
2人が店を出たあとも、しばしカウンターで頬杖をつきながら妄想の世界に浸る私であった。
ロマンスを育むためのツール…!
古本が秘めたる新たな可能性を知って感動した。
古本に恋愛をしていても、古本で恋愛をすることは生涯知らぬまま終えるであろう身としては貴重な発見を得た1日となったのだった。
それにしても、デートの場所に古本屋を選ぶ素晴らしさったら!
実はこのような恋人達の風景、古本屋Sでは珍しくない。連日、福岡の新たな恋人の聖地として認定されている⁉︎と勘違いしてしまうくらい恋人達のご来店が非常に多い。香ばしい古本空気と恋人達から放たれる甘い空気とが入り混じって、その醸される幸福エキスだけで店番中はお肌が10年くらい若返る気持ちになる。
なにより皆さん、しっかり本を見てくださるのが更に嬉しい。
何かの本で、カップル客は冷やかしが多いとかなんとか書かれていたのを時折ふっと思い出すのだが、古本屋Sは間違いなく例外だろう。単独で来てくださっているお客さんと同様にカップルのお客さんもしっかり琴線に触れる本を各々上手に探し出してレジに持ってきてくださる。
彼女が買おうとしている本を「俺が買ってあげるよ。」とスッとスマートに優しく取り上げ、自分の購入本と一緒にレジに差し出す粋な彼氏の姿に「いいね!」と心の中でグッジョブサインを決めるシーンも多々ある。
一冊の本を見つけて「懐かしい!」「この本、知ってる!昔読んでた!」と盛り上がり、「一緒に読もう」と2人で一冊の本を買う微笑ましい姿もよく見かける。
古本という世界は限られた人々だけが楽しむものではない、いろんな楽しみ方がある、私にこうした新しい認識の風を吹かしてくれているのはお店に来店される若い恋人達だったりする。
いずれアト坊も青年になって彼らのように恋愛をするだろう。もしくは、何かに夢中になる日も来るだろう。
その時がきて、幸いにもそのことを母親である自分が知れた日には、是非聞かれなくとも伝えたい。君が今感じている胸のときめきと同じものを母は古本に抱いているんだよ、と。
「なんで?」と今日も私に質問を投げかけてくる3歳児の瞳を見つめながら、いつかやってくる未来の息子とのやり取りを同時に思い浮かべる私なのであった。
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カラサキ・アユミ
1988年福岡県北九州市生まれ。
幼少期から古本の魅力に取り憑かれて過ごし、大人になってからは大好きな古本漁りの合間に古本にまつわる執 筆活動を行うように。
2024年現在、3歳になる息子にも古本英才教育中。
著書に『古本乙女の日々是口実』(2018)、本エッセイ「子連れ古本者奇譚」に書き下ろしを加え書籍化した『古本乙女、母になる。』(2023)がある(共 に皓星社)。
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