コラム

2024.07.30

コラム

カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第32回「夏のファミレスにて」

 

今月に入ってから毎週、毎日ではないが幼稚園からの帰り道に度々ファミレスに寄るようになった。

外食なんて不経済、だなんてフレーズはこの夏は頭から抹消することにした。

 

夕方、古本屋仕事からの帰り道、これでもかと降り注ぐ日差しに体力と気力を蝕まれながら子供を迎えに幼稚園に向かう私はゾンビのような形相になっている。その状態からさらに重さ15キロの3歳児(汗まみれ泥まみれ)と荷物一式がプラスされる。もはや顔の化粧も汗で全て流れ落ちて蒸したての小籠包のようで、同じくお迎えにやってきたお母さん達にギョッと二度見されるくらいの迫力フェイスだ。

 

もう体力も限界寸前ではあるが、私が倒れ込んだとて誰がこの可愛い我が子を助けてくれようか、自分が頑張るしかないんだ、そう毎回気合を入れ直して息子をヨイショと背中におんぶする。

 

車もママチャリも持ち合わせていない我々親子がこれより目指すのは山の上にある徒歩30分の自宅である(おまけにアト坊は歩くことを拒否するのでひたすら妖怪子泣き爺の如く私の背中に張り付いている)。対して、冷房もきいて食事もできるオアシスのようなファミレスがここから歩いて10分かそこらに存在する。

 

幼稚園そばの大通りに出た瞬間、右の天国の道に行くか左の地獄の道に行くかいつも足踏みしながら葛藤を繰り広げている。

 

暑さに包まれながらの長い坂道と階段を経て、洗濯物をダッシュで取り込み、ご飯の支度に取り掛かり、子に食事を食べさせ、お風呂に入れて…帰宅後の慌ただしいルーティーンを想像してげっそりする自分がいる。

 

まだまだイヤイヤ期真っ只中の息子は、大慌てで晩御飯の準備を済ませて食べるのを促しても「いや!プリン食べたい!」と冷蔵庫によじ登るし、お風呂に入ろうと誘っても「いや!あとで!」とソファに寝っ転がり一筋縄ではいかない。

帰宅してもクーラーのきいた部屋でドッコイショと一休みなんてする間もなく、家の中でも汗だく必須の未来が待ち構えているのだ。

 

その点、ファミレスに行けば晩御飯は注文したら運ばれてくる、偏食が激しいアト坊も食べ慣れ親しんだメニューもある、涼しい世界で私は束の間の休息を得られる、なんだったら仕事が終わった夫に車で迎えに来てもらうこともできるのだ。

 

母親だってか弱い人間だ、35歳になったって甘えたい気持ちが無くなりはしない。お金で快適を買ってもいいではないか。古本数冊我慢すれば済む話だ。

 

こうして「もう今日はファミレス、行こっか!」と甘い決断を容易く下すのは大体水曜日が多い。週の折り返し地点にくると私の判断レベルはかなりゆるむ。

 

 

最後の体力を振り絞りファミレスに到着したあとはこのオアシスの包容力に身を任せるのみだ。

 

いつもの窓際の席に座り、お子様プレートと唐揚げ定食(本当は激辛チゲうどんを食べたいが、子供が食べられそうなものを頼んでしまうのは母親あるあるに違いない)を注文し、子供が携帯の画面に映し出された動画に見入っている間に頬杖をついて窓からぼんやりと空を見つめる。やっとほっと一息つける。

夏の暑さは大嫌いだが、夏の空は好きだ。

ここ最近、慌ただしい日々を送っていたのでなおさら空の美しさが目に沁みた。

 

この7月は身内とお世話になった人の不幸ごとが立て続けに重なり、それぞれの葬儀に参列した。私自身、人生で葬式に参加したことはまだ数えるほどしかないが、子供の頃と違って大人になると、そうした場に身を置くと悲しみだけではなくいろんなものが渦巻く複雑な感情も同時に込み上げてくる。

 

アト坊にとっては初めてのお葬式で、棺の中で目を瞑る故人を「どうしてここで寝ているの?」と不思議そうな表情で見つめている瞳にはまだ〝死〟という概念がはっきりとは存在していない。正直、私自身も子供を産んでからは他人事のように忘れかけていた感覚だった。

 

〝生〟の塊である我が子の生き生きした姿を当たり前に見つめながら過ごしていたのもあり、生のエネルギーにすっかり触れ慣れた自分にとって今回の葬儀の参列は、変化し続ける人生の延長線の最後尾にある〝死〟の存在がドーン!と急に目の前に仁王立ちしてきたような、久々に胸に大きなざわめきを起こさせる機会となった。

 

これからも家族や親しい人との別れがいつか必ずやってくる。そして私にも必ず終わりがやってくるのだ。現在が一生変わらないことは絶対にあり得ないという当たり前の事実が急に身近に感じられ怖くなってしまったのだった。

 

 

歳を取ることが怖いとは全く思わないが、こんな風に気付きたくないことや意識したくないこととの出会いが否応なく増えてくるのがなんだかやるせない。

考えたって仕方がないモヤモヤが葬儀の参列以降、胸の内にちょこんと居座るようになった。

あぁ、何にも難しいことも考えずただ大好きな古本だけを触って楽しく生きていきたい。そう思うも、購入した古本の包み紙を破る一番ワクワクした瞬間でさえもフッと「でも、あの世にはこの本持っていけないんだよなぁ…」と無駄に冷静になってしまう自分を厄介に感じた。

 

 

お手伝いしている古本屋Sでは古本の買取依頼の相談にいらっしゃるお客様も多い。開店してまだ日が浅いため受け入れ態勢が整っていない関係上、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらお断りをさせていただいている(そんな時こそ、このコラムを掲載している古本一括査定を前のめりにご紹介しているのだが)。

その中の多くを占めるのが古本趣味を持っていた故人の遺族だ。

 

「父が亡くなって、蔵書の処分に困っているんです」

「祖母が買い集めてきた本たち、捨てるのもなんだか申し訳なくて」

 

故人の生前の様子をお話ししてくださりながら残された本に対する遺族の方々の表情は正直に書くと困り顔だ。いち古本好きとしては自分の亡き後の家族の表情と重なるように見えて、いたたまれない気持ちになる。

 

そして終活と称して自分が元気なうちに自分の蔵書を処分したい、というシニア世代の方も多い。「家で眠らせておくより早く次の世代に引き継ぎたいから」「家族に迷惑かけたくないから」と笑いながらも、どの方もその表情はやはり寂しげだ。

 

古本屋仕事で日常茶飯事に遭遇するこういったお客様とのやり取りにおいても、やはり最近の私は連鎖するように〝死〟という無常の存在を意識してしまうようになった。

 

 

 

お葬式と、日々の店番でのお客様とのやりとりと、少しずつ老いていく自分の体力気力や思考の変化。考えたって仕方のないことを、なぜだかまるで大事なもののように抱えて日常を過ごしている最近の自分がいた。

 

色々な出来事がミルフィーユのように重なり合った結果、気疲れもあってか、こうして憩いの場でもあるファミレスに立ち寄る頻度もかなり多くなってしまったのであった。

 

 

ふと隣に座る息子の大人しさに気づく。

先ほどからメニュー表を見つめていたらしいアト坊はキッズアイスを発見するやいなや「これ!これ食べたいの!」と私に訴えかけてきた。

運ばれてきたお子様プレートのおかずは先ほどからほとんど減っていない。間髪入れずに却下の返答をするも、全く諦める気配はない。

子供は私の「ダメっ!」という言葉にさえ希望を見出しているようだ。その不屈の精神が宿る揺らがない表情は憎たらしさを通り越して、もはや面白い。

夫に古本趣味を諌められている時の私の顔はきっとこんな風なのだろうな、としみじみ我が子の顔を眺めながらクククと笑いが込み上げてきた。

しばし睨み合いを繰り広げながらも結局は息子の要望通りアイスを注文することにした。おまけに私までチョコレートパフェを注文してしまった。

 

あぁ、ダメだなぁ私って…と罪悪感に浸りながらも「まぁ、いっか!」と受け流している自分がいる。これくらいの感覚で死をも生の一部としてひっくるめて楽しんで受け流すくらいの陽気さが今の私には足りなかったのかもしれない。

 

2人して口の周りをチョコだらけにしてアイスを頬張るこの時間は古本代を削ってでも得る価値のあるものだと、体も心も夏バテ気味だった私は少しだけ元気を取り戻したのだった。

 

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県北九州市生まれ。

幼少期から古本の魅力に取り憑かれて過ごし、大人になってからは大好きな古本漁りの合間に古本にまつわる執 筆活動を行うように。

2024年現在、3歳になる息子にも古本英才教育中。

著書に『古本乙女の日々是口実』(2018)、本エッセイ「子連れ古本者奇譚」に書き下ろしを加え書籍化した『古本乙女、母になる。』(2023)がある(共 に皓星社)。

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