2020.08.11
コラム
いま、私の目の前に一冊の古いアルバムが置かれています。分厚さ、サイズともに市販の国語辞典とほぼ一緒です。函付きの布製の装丁でなかなかの存在感です。このアルバムを手にして以来、毎日毎日暇さえあれば見入っています。眺めながら先日電話越しに聞いた母の話が、幾度となく私の頭の中を駆け回っていました。
60代の母は月に何度か健康のためにと地域の公民館で行われる体操教室に通っています。上は90代、下は50代と言った年齢層で皆さんお年の割に(と言うと失礼かもしれませんが)とても活発でバリバリにお元気だそうです。コロナ騒動でしばらくお休みになっていた教室でしたが、ようやく厳重な感染対策のもと再開することになり、母も久しぶりの参加に心躍らせたそうです。
さて気持ちの良い汗を流した後、何人かのグループで近況報告など世間話に花を咲かせていた時のこと。ある80代の女性からこんな話題があがったそうです。
「コロナのせいでずっと家に篭りっぱなしだったでしょ。だからこれは良い機会だと思って自宅の整理してたのよ」。ここまでは良く耳にする会話です。
「それでね、家に沢山あった自分の両親や自分が若い頃の写真やらアルバムやらぜーんぶ捨てたのよ!」 !!!!???
咄嗟に母は驚いて反応したそうです。「どうしてですか? 大切な思い出でしょう?」
「だってあなた、体が元気なうちに処分しておかないと自分が死んだ後に子供や孫達に後片付けの仕事を増やしてしまって迷惑がかかっちゃうでしょ。それに私の両親や私の写真なんか残されたってきっと迷惑なだけで必要ないわよ〜笑」
そして更に驚くことにその話に賛同するかのようにその場にいた方々の半数から「私も私も。処分したわよ。」と次々と声が挙がったそうです。
この話を聞いた私はその場にいた母と同様に驚愕してしまいました。
なんせ我が家は親子そろって記録魔の如き習慣を持っていて、膨大な量の家族写真を収めた分厚いアルバム群を保管する納屋まで庭に設置したくらいですから。我々のような思い出至上主義者にとってはショッキングな話でした。
2002年のアメリカ映画で『ストーカー(原題 One Hour Photo)』という映画があります。スーパーの片隅にある写真現像ショップに勤める孤独な男性が主人公の心理スリラー映画で、写真やカメラが物語の鍵を握る対象として断続的に登場します。その中で、ある印象的なシーンがあります。主人公が蚤の市を散策している最中、箱に入っている無数の古写真を漁るシーンがありそこに無造作に放り込まれている見知らぬ人々が写る写真を一枚一枚手に取り心の中で呟きます。
〝スナップ写真は時の流れを止める。時間が静止する。まばたきする間だけ。過去の写真が未来の人々に語りかける。こうささやく。「私はここよ。私は生きたわ。」〟
自分の写真に対する気持ちを代弁するのに引用するとしたら、まさにこれです。
これこそ自分が写真という存在を大切にする最大の理由です。写真とは膨大に流れる時間のほんのひと時、人生の一瞬を一枚の紙に封じ込めている魔法のような存在であるわけです。
では冒頭に登場したアルバムの話に戻ります。
このアルバムには昭和15年の春に国内津々浦々を旅した6人組の男性達の記録を写したゼラチンシルバープリントの印画紙が大量に貼り付けられています。それらからは現代のカラー写真では醸すことの出来ない圧倒的な重厚感が漂っています。もちろん、写っているのは祖父ではなく私とは縁もゆかりもない見知らぬ〝他人〟です。
観光名所の前でスリーピースのお洒落なスーツ姿(そして全員が当時流行していたソフトハットをかぶっている)や旅館の浴衣姿で、初老の紳士たちが時に笑顔で時にはかしこまった表情で写っています。6人がそれぞれきちんと十八番ポーズを決めている様子からは何だかおかしさが込み上げてきてしまいます。80年前も今と変わらずカメラの前でおどけて見せる人はいるんだなぁとクスクス。
とにかく、どの写真からも旅の楽しさや興奮が眺めているこちらにまで伝わってきます。紳士達の年頃は、60代くらいでしょうか。顔のシワと恰幅の良さから察するに私の父と同じ世代のように見受けられます。大の大人達がいい歳して天真爛漫にはしゃいでいる様子から可愛らしさをも感じました。
とりわけ気の合う仲間達での旅だったのでしょう。
このアルバムは五千円で購入しました。素晴らしい買い物が安く出来たと私は大満足でした。人から見れば高い買い物だと思われるかもしれません。現に、購入する際にはお決まりのすったもんだがあったわけですが…。買い物監視官である主人からは「なんで知らないおじさんたちが写った古写真なんかにそんな大金を払うんだ! 理解できない! あり得ない!」と散々たる言われようでした。あまりに正論過ぎてグウの音も出ませんでしたがそれでも私の気持ちは一切揺らぐことはありませんでした。今ではもう当たり前に見ることが出来なくなった景観、海の情景、渓谷に佇む立派な木造旅館、そして旅先ではしゃぐダンディな男達。自分の知らない世界が詰まっているようで、いや、まさしくそうなのですが、見知らぬ人々が過ごした時間の流れを、手中に収めてこの眼でじっくり感じてみたいと強く思ったからでした。
アルバムを繰り返し開くうちに、より感情を移入して眺めてみたいと思った私は写真の中に散りばめられた情報をもとに、自宅で長らく飾りと化していた古本たちを手に取り当時の人々の暮らしや時代背景を調べ始めたのでした。こんなに夢中になって物事を知ろうとする意欲が湧き起こったのは久々かもしれません。
昭和15年と言うとあの「贅沢は敵だ!」という学校の授業で教わった有名なキャッチフレーズが登場した年でもあり、他国での戦争が始まり不要不急の娯楽旅行は自粛せよとの御触れも出ていた時代(そして翌年から太平洋戦争に突入)。
この6人はそのような状況下の中で様々な土地を旅していたわけです。戦争こそ無けれども、何だか今私たちが意図せず精神的に強いられている世の中の状況に近い雰囲気ではありませんか。
その事実を知った後に改めてアルバムをめくっていくと、まるでジワジワと迫りくる暗い影を突っぱねるようにあえて陽気に過ごす粋な男達の像が新たに浮かび上がってきたのでした。
深読みかもしれませんが、とにかく、私は彼らからその瞬間を生きる人間の生々しい力強さをひしひしと感じ取ったのです。
最後に、このアルバムの中で私が一番好きな一枚があります。それは温泉街の近くの里で撮ったと思われる集合写真で、ひとっ風呂浸かった後のように浴衣姿で皆リラックスした様子です。最初にこの写真を眺めた時にふと、一際かしこまった表情でしゃがむ男性の片手にあるものが握られているのに気付きました。目を凝らして確認するとなんと花を持っているではありませんか。散策している途中に見つけた道端に咲いていた野の花でしょうか。きっとそうに違いありません。この強面のおじさまがどんな表情で野に咲く可憐な花を摘んだのでしょう。そんなことを想像しただけで胸が綿毛でくすぐられたような温かな気持ちになりました。出会うことのなかった過去の人物から写真越しに贈り物を受け取ったような気分になりました。
ただ単純に旅行を楽しんでいる初老の紳士達の姿に心惹かれて購入したアルバムでしたが、気がつけばこのように様々な感情が自分の中にわんさかと流れ込んできました。
一冊のアルバムもある人間の人生物語が綴られた作品、いわば一冊の本であるのに変わりなく、またこのように見知らぬ他人に対しても影響を与える不思議な存在にもなり得るのです。
そんなわけで、私の写真が収められたアルバムもいつか何らかの形で未来の人の手に渡った時、どのような物語を読み取ってもらえるのだろうか…とこうして今から密かに楽しみにしている次第です。
——————————–
カラサキ・アユミ
1988年福岡県に生まれる。幼少期よりお小遣いを古本に投資して過ごす。
奈良大学文化財学科を卒業後、(株)コム・デ・ギャルソンに入社。
7年間販売を学んだ後に退職。
より一層濃く楽しい古本道を歩むべく血気盛んな現在である。
——————————–
安心して信頼できるお店へ買取依頼できるサービス「古本一括査定.com」