コラム

2023.10.27

コラム

カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第23回「子供の成長と秋の記憶」

10月のある日。休日の早朝、近所のコインランドリーに秋冬物の毛布や厚手の子供服をIKEAの特大ビニール袋いっぱいに詰め込んでヨイショヨイショと持ち込んだ。

「来週から気温がグンと下がります!」と天気予報のキャスターが前のめりにそう話すのをテレビ越しに眺めながら、そろそろ寒さに備えていかなくては…と背中を押されたのだった。

我々と同じように冬支度に勤しむ人々の来店で乾燥機のコーナーは瞬く間に満員の状態になった。「寒くなると外に干した洗濯物もなかなか乾かないからいやになっちゃうねー」なんて言いながら小学生の子供を連れたお母さんがフウフウと家族分の上着や羽織物を機械から取り出しては畳んでいく。

そこにいる誰もに対して親近感が沸いた。冬用カーペットやこたつ布団を運んで入店してきた老夫婦は巨大な折り紙を折るかのように息の合った共同作業で器用にランドリー機に投入していく。

乾燥が終わる30分間、店内のソファに腰掛けて待つことにした。

隣に座るアト坊は先ほどから興味津々にゴウンゴウンと音を立てながら微動するランドリーの群れを眺めている。

そばに設置されている自販機で紙カップのココアを買って私が戻ると、パァァァと瞳を輝かせて「ちょうだいよー!」ともう興味の矛先は甘い香りを漂わせる飲み物へ。

二歳五ヶ月、自分の感情を言葉で表現することがすっかり上手になってきた。

熱々のココアを子供と交互に口に運びながら、先ほどのアト坊と同じようにブルルルと揺れながら洗濯物を回す機械の風景をぼんやり眺める。

それにしても冬がまだ訪れる前の束の間、私はこの季節が一番好きだ。嫌いな人なんていないんではないだろうか。

365日、ずっと10月が続いてくれたらどんなに最高かと毎年毎年懲りずに願わずにはおれない。

 

コインランドリーには待機する人へのサービスで雑誌や漫画が並ぶ本棚も設置されており、飲み終えたカップを捨てるついでに、そこから普段読まない系統のファッション雑誌(奥様向けの)を手に取りパラパラとページをめくった。アト坊も膝によじ登ってきて一緒に誌面を眺める。綺麗なモデルさんを指さし、「ママ!」と叫ぶ。いまだ全人類みな女はママ&男はパパという目線の彼ではあるが、ページを捲るたびに全てのモデルさんを指さし「ママ!」と連呼するアト坊。いい子だ、息子よ。

最近アト坊は、私が携帯を眺めていると「いやぁァァ!」と不快感を露わに突進して手で携帯を叩き落とそうとしてくるのだが、不思議なことに本を読んでいるときはニコニコしながら近づきどれどれ…と覗き込んでくるのだ。そして膝に座って一緒に本を眺め始めるのである。本を集中して読めないのは事実だが、でもなんだかとっても嬉しい。

 

そういえば先日、部屋を模様替えした日のこと。

私の作業机は普段ほとんどの時間を過ごすリビングに設置しているのだが、机の周囲に本棚を囲むようにして置いているのでどうしても窮屈感が否めない。

子供が生まれる前からだから、もう三年近くこの状態が続いている。

そこで、よし!配置を変えてみよう!と思い立った。本の整理も兼ねて。

さて、本棚を移動させるには中に並べている本たちを一旦全て取り出さねばならない。

本を取り出しながら邪魔にならないスペースにどんどん積み上げていく。倒れないよう、でもギリギリまで本を上に上にと重ねていく。

「おぉこんな本があったのか」「この本こんなところにあったのか」など蔵書整理ならではの誘惑に途中遭遇しては作業する手が止まってしまったが、それでも数百冊の大小様々な本たちを棚から抜き出し、本棚をいくつか移動させ机の配置を変えるという腰の痛くなる行為を無事に済ませた。うん、頑張った甲斐あってなかなか開放感ある素敵な空間になった。そう満足感に浸りながら、その時点でハッと私はようやく気づいた。

「本棚が丸見えだ!」

これまではアト坊にイタズラされないように目立たない場所に置いていた本棚たちが一挙にオールスター大集結と言わんばかりにスポットライトを浴びる位置にお出ましになったのである。アト坊のイタズラの餌食になってしまったらどうしよう…すっかり忘れてた。でもあの本を移動させる重労働はもうごめんだ。

 

腹をくくった私は、保育園から帰宅したアト坊の様子をドギマギしながら見守った。

果たして、彼は模様替えした部屋(少し空間が広くなった)を駆け回るついでに剥き出しの本棚にチラッと目線を投げかけただけで何事もなかったのである!

あれだけ危惧していた事態が全く起こらないことに対して私は拍子抜けしてしまった。同時にある種の寂しさも噛み締めた。

あぁ、これが〝成長〟というものなのか、と。

本を噛んだり破っていたりしていた姿、棚から本を手当たり次第に抜き出しては放り投げて遊んでいた姿、これまで脂汗をかきながら対処していた数々の行為が今ではもうすっかり懐かしい風景になってしまった。

彼の目には単なる紙の塊だったモノたち。だが、「本」という概念が着実に芽吹いているようだ。

子供の認識の変化を目の前で感じた瞬間だった。

それ以来、私が本棚の前にしゃがみ込んで思索に耽る時(仕事で煮詰まった時や気分転換したい時、私は背表紙群を眺める)、時折、アト坊も私と一緒に隣に立ち古本が並ぶ棚を見つめるようになった。

小さな手で本の背表紙をなぞっている手つきは普段の腕白さから想像がつかないほど繊細な様子で、まるで彼の目には本が子猫のように映っているかのようにとても優しく撫でるのだ。

「これは本って言うんだよ」

「ほんっ」

「そうそう」

「ママ、ほん!」

じんわりとした嬉しさが私を包む。

 

子供は人生で最も親から手厚く愛情を一心に注いでもらった時期の記憶は残らないまま成長していく。アト坊もきっと高校生になる頃には「一人で自力でここまで生きてきたんだ」と言わんばかりの心持ちになるのだろう、きっと。

だが、この小さな指先でなぞった本の手触りや、こうして私と一緒に佇みながら本を眺めている間に流れる穏やかな空気、そうしたものは確実に彼の一部になっている。彼自身が他愛もないこのひとときをいずれすっかり忘れたとしても、この日の喜びや嬉しさは母親である私が覚えている。それが大切なことだ。

それにしても子供っていつから日々の出来事が記憶に残るのだろうか…、ふと疑問に思った。人によっては乳幼児の頃からといった話も聞くが、私の場合は小学校に上がるまでの記憶は断片的すぎて無いに等しいかもしれない。

 

鮮明に記憶が残っている幼い頃の記憶は、おそらく六歳の時だろうか。時期はまさにちょうど今のような季節。

当時、母が町の公民館で週一回英会話教室を開いていた。私と二つ上の兄は揃って、小学校が終わると公民館に向かい、他の生徒たちに混じって母の授業を聞いて過ごした。内容は全くわからなかったが、黒板に書かれた英語の文章を一斉に読み上げる時は面白がって声を張り上げて参加した。退屈したら公民館の裏手にある路地で猫を撫でたりして暇を持て余しながら母の授業が終わるのを待った。

母が帰り支度を済ませ「さぁ、帰ろうか」と私たち兄弟を連れて公民館を出る頃には空には夕焼けが広がっていた。夕日が顔を照らし、肌に当たる空気が心地良い夕暮れ時、親子3人並んで河川敷を歩きながら帰りがけにコンビニで買った肉まんをハフハフ頬張りながら家路につく。

「お父さんには内緒ね」と母に言われながらも、無邪気な子供だった私は父が帰宅したその日の晩、嬉々として母との約束を破りこの日食べた肉まんがどれほど美味しかったのかを父に語ったのであった。「いいなぁ、父さんも食べたかったなぁ」とそう呟く父の顔は本当に羨ましそうで、その様子を見て私は更にニンマリしたのだった。

肉まんを食べながら秋の夕暮れ時を母と兄と歩いていたあの瞬間のなんとも言えない幸福感は六歳の私に深く刻まれ、三十をとうに越した今の私の中にも脈々と息づいている。

 

こうして思考を現在と過去を行ったり来たりさせているうちに、やがてランドリー機はピーピーと音を鳴らして業務完了を知らせた。

ホカホカに乾いた洗濯物たちをすっかり袋に収めたのち、隣接したコンビニに寄る。

小腹が空いた私はすでに肉まんを購入することで頭が一杯になっていた。

案の定、私の手に肉まんが舞い降りた瞬間、そばにいたアト坊が「ちょうだいよぉ!」と手を伸ばしてきた。

いつかアト坊が私くらいの年齢になった時、その頃の彼にはどんな幼い頃の記憶が鮮明に残っているんだろう。是非聞いてみたいものだ。その頃には立派な古本者に育っているだろうか。

頬っぺたをモリモリ動かして肉まんを頬張る息子と手を繋いで歩きながら、将来の楽しみをまた一つ増やした私であった。

 

——————————–

カラサキ・アユミ

1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。

幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。

肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。

大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。

(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)

著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。

——————————–