コラム

2023.07.26

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カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第20回「出会ってしまった理想の古本物件」

ある日、いつものように子供を保育園から迎えに行った帰りのことだった。

天気も良いしちょっと遠回りして帰るか、とお気に入りの散歩コースを通って家路につくことにした。

その通りには、必ず視線が奪われる古めかしいアパートが一軒あった。それは、漫画家たちが住んでいたあの有名なトキワ荘のような佇まいのアパートで、ここら辺りでは一番古い建物のようだった。年季の入った門塀には古風なアパート名が刻まれた石のプレートが貼り付けられている。壁には蔦が生い茂り、器用に窓を避けて模様のように建物の半分を覆っている。また、建物一階の角部屋のそばには巨木が2本、分厚い根をはり葉を茂らせ見事な木陰を作っている。

とにかく、その建物が大好きだった私は「あぁ、もしこのアパートで過ごす機会があったら面白いだろうなぁ」と漠然とした羨望の眼差しを、この地に移り住んでからの8年間いつも通りかかるたびに注いでいたのだった。

 

それがこの日、思いがけない光景が待ち構えていたのである。

アパートの柵に「入居者募集中 △△不動産」の看板が提げられているではないか!

古めかしい建物に突如出現したブリキ製の真っ赤な賃貸看板は異様な存在感を放っていた。

 

ベビーカーを押す手を止めてしばらく見つめる。

子供が何事かと体を捻って訝しげに私を見上げていた。

「初めて見る不動産会社の名前だな…」

痺れをきかした子供がグズり始めたので慌てて携帯を取り出し、取りあえず看板の写真を撮ってその場を後にした。

 

その日の晩、真っ暗闇の寝室で子供を寝かしつけながら私の頭の中はもうあのアパートのことでいっぱいになっていた。

帰宅後すぐ、ネットで検索してみたがアパートに関する賃貸情報は一切ヒットしなかったのである。管理している不動産屋のホームページを調べても該当物件は掲載されていなかった。

「間取りは…?どの部屋が貸し出しされてるんだろう?部屋の状態は?あと肝心の家賃は?」

8年間の片想いが進展するチャンスだと言わんばかりに詳細を知りたくてたまらなくなっていた。

 

そこで翌日、動産屋に問い合わせて詳細を聞いて見ることにした。電話口で対応してくれた担当者はつい先日募集の看板をかけたばかりとのことで早速の問い合わせの電話に若干驚いている様子だった。

「よかったら明日内見されますか?直接部屋を見ていただきながら詳細を説明した方がわかりやすいですし。」

うむ、そうですな、とりあえず見るだけ…見るだけなら…と、物件の担当者(以下、Kさんと称す)の提案に即座にイエスの返事をした。

 

当日やってきたKさんは幾つもの鍵を握りしめて待ち合わせのアパートにやってきた。

「今居住されている方がいる数部屋以外は全て貸し出す予定でして。どの部屋も間取りも広さも全て異なるのですが家賃は均一で〇万円になります。敷金も礼金もなしです。部屋は全てこれからリフォームする予定です。クーラーも設置します。もちろん、この建物が持つ昭和レトロな雰囲気の良さは残しながらなので内装も外装も補強するだけでほとんど変えません。」

 

会うなり、魅力的な情報が満載のトークを落ち着いたトーンで繰り広げるKさんの、時折ポケットから取り出した柴イヌ柄のハンカチで汗を拭う姿も好印象だった。

 

結論から言うと、この日空き部屋全てを見せてもらったわけだが、その内の一部屋にすっかり私の心は奪われてしまったのである。

 

その部屋は一階の角部屋で、アパートの門を入ってすぐに位置しており、透かしガラスがモダンな玄関扉が特徴的で、玄関の小上がりの先には板張りの台所と風呂とトイレ、その奥には6畳の和室といった至極シンプルな間取りだった。和室には大きな窓が二つありさすが角部屋なだけあって採光も申し分ない。窓を開けるとこのアパートの象徴的な存在とも言える2本の巨木がすぐ側にあり、又、その下を覗くと道を隔てて小さな川が流れていた。

目を閉じるとまるで京都の鴨川の川床で涼んでいるような、部屋に居ながらにしてそんな優雅な気分にさせてくれる川のせせらぎの音も気に入った。

 

「家賃の安さ、自宅から徒歩圏内、階段がない」これら3つの条件が全て揃っている物件に初めて出会った瞬間だった。

(読者の皆様には過去に掲載した第14回「古本者の階段話 ~理想の物件は何処へ~」を是非読み直してもらいたい)

 

「ここを古本部屋として借りたい…!」

部屋を見渡して5分ほど経った時点で私の決意は99%まで達していた。

 

その後、Kさんと話し、倉庫や事務所として借りる場合は毎月の賃料に消費税が加わること、初期費用にかかる具体的な金額のこと、リフォームが済んでからネットに掲載予定なので早急に入居者が決まる確率は低いこと、実際に入居できるのは数ヶ月先など詳細情報を教えてもらったのち、一旦保留する形となった。

「もし今後新たにこの部屋を内覧希望の人が現れた場合は事前に承諾確認をする連絡を入れますから安心して検討してみてください」と言ってくれるKさんからは後光がさしていた。

 

自宅とは別に私が部屋を借りたい切実な理由が大きく二つある。

まずはあれほど大好きだった本に触れる時間が確実に減ってきていることだ。

子供が触れないように本棚という本棚の前にバリケードを設置したがために、それが障壁となり気安く本を探すことも出来なくなってしまった。

子供中心の生活空間にイミテーションとして本達が溶け込んでしまっている現状が何よりも歯痒いのである。

そして仕事(執筆作業)に対する集中力の低下も目立ってきた。

仕事の空間と生活の空間を区切ることで生じる気持ちのメリハリが今の自分には必要だと痛感する日々を送っている。

 

とは言え、お金が関わってくるわけだから勢いでポンと決めるわけにはいかない。内見を終えて自宅に戻るやいなや机の上にノートを広げてまずは今現在の自分のマネー事情を赤裸々に書き出して現実と向き合う作業を始めた。

「あ…そう言えばこの間、学資保険に入ったんだった!来月から引き落としが始まるんだった…。」「今払ってる保育料が来年アト坊が三歳になったら無償化になるからその分が浮くなぁ…。」「毎月大体これだけ引き落としがあるから、余剰分の金額はこれくらいか。」

現実的に数字に起こすと、今のままの自分の稼ぎだと新たに部屋を借りるとなった場合、毎月自転車操業に拍車が掛かることが確定するのは明白だった。デメリットの方が多いのは言わずもがな。

唯一のメリットは〝古本専用の空間があることで自分の精神衛生が良くなる上に仕事の効率が上がる(かもしれない)〟のみ。

だが、このメリットはデメリットさえも薄めてくれるほどの威力を持っているのである。

こうして、現実と理想の間でゆらゆら揺れて数日が経った。

 

ここは敢えて第三者の意見を聞いてみようと、私の趣味嗜好を理解してくれている親友と翌る日飲みに行った際に、思い切ってこの話題を投げかけてみた。

ハイボールを飲んでいた友人の表情は一瞬にして真顔になり「…あんたなに考えてんの。そんなお金あったら貯金でしょ貯金。部屋借りなくてもどうにかなるでしょ。その発想はおかしい。」とまぁ、耳を塞ぎたくなるような理路整然とした言葉ばかりが返ってきた。

 

夫には笑いながらこの古本部屋の計画を話してみると「正気ですか?」と言わんばかりの氷の表情が返ってきた。ごもっともな反応である。

 

ついでに母にも電話口で相談してみると

「毎月払う賃料でどれだけ古本が買えるか想像してみ?旅行にだって行けるのに。部屋を借りたらそんな余裕なくなるだろうにアンタはそれでいいの?」と痛いところを突かれる助言が耳に注ぎ込まれた。

 

こういう真人間な人たちが周囲にいてくれたお陰で自分のような頭のネジが外れた人間は今日までギリギリ理性を保てて生きて来れたんだなぁと、想定外の収穫を得た結果となったのであった。

 

 

数日後、まだまだ諦めてはいない私は、机の上に広げた真っ白い画用紙にあのアパートの一階の角部屋の間取り図を描き出した。

「このスペースに本棚を置いて…ここに棚置いて…」とペンを走らせ理想の古本部屋のイメージを描き込んでいく。

切なくも楽しいその作業を終え、ぼんやり間取り図を眺めていると、一人遊びに飽きたアト坊が私の服をつたって膝の上に登ってきた。

両手にはクレヨンが握られている。

あっという間に、完成した間取り図の上に彼の手によってクレヨンのアヴァンギャルドな線が引かれていった。ただただ私はそのままぼんやりとその光景を眺めていた。

膝に座る息子の後頭部の汗ばんだ匂いを嗅ぎながら、頭の中で再び間取り図を思い浮かべている私なのであった。

 

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。

幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。

肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。

大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。

(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)

著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。

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