コラム

2023.06.30

コラム

カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第19回「古本は夜更けのファミレスにも似て」

梅雨の時期が到来してからというもの毎日ドキドキしっぱなしである。携帯の着信音は最大にしてポケットに入れ、外出時も自宅で過ごす時もトイレに行く時も肌身離さず持ち歩いている。

〝あの人〟からもし着信があったら間髪入れずに出られるように。

電話をもらったら一目散に家を飛び出して向かわなくちゃ。

これは恋する乙女の心情ではない。

〝あの人〟とは息子が通っている保育施設のクラス担任である。

園からの着信、それはすなわち「お迎え要請」を意味する。

「子供って本当にこんなに突然熱が出ちゃうんだ…!」

よく育児エッセイで体験談を見かけては、「まぁうちの子は大丈夫っしょ!」と他人事に思っていたのだが、とんだ甘い考えだったことを痛感させられた。

まだアト坊は保育施設に通い始めて半年足らずだが、世に言う〝洗礼〟なるものを順調に受けまくっている。発熱、嘔吐下痢、鼻水…。

そうなのだ、集団生活が始まると子供の体調不良は本当に何の前触れもなく突如突然やってくるのである。

かかかりつけの小児科の先生から「今ね、坊ちゃんは色んなお友達と一緒に過ごして外の世界の無数の菌を体に取り込んで耐性を培っているの。強い体になる為に必要な過程なんですよ。」と菩薩のような笑顔で諭されるも、診察を終えて子供を抱えて帰宅する私の表情は限りなくディープブルーだ。

 

そうこうしているうちに登園生活スタート以来、初めての初夏がやってきた。

しかも、春から夏へと気候が移り変わるこの季節は大人も子供も体調不良になりやすい時期らしい。

ヘルパンギーナ、アデノウィルス、RSウィルス、手足口病…

初めて聞くけど「なんかヤバそう」と感じずにはおれないケッタイなフレーズの病名が園から配られたお便りに羅列して書かれている。

 

そんなわけで、いつ呼び出しがかかるかわからない状況に、ヒヤヒヤドキドキな心配を胸に常時秘めながら日々を送っているのである。

とは言え、月曜日から金曜日のどのタイミングにそのような事態になるのかは病の神のみぞ知るわけで、何事もなく杞憂に終わる週だってあるわけだ。後者の日が続くと欲が出てくるのは必然である。

と、なるとたまには一人でのびのびと古本を漁りに行きたくなる。

 

さぁ明日はちょっと遠出して前から行きたかった古本屋に行くか!と昨夜のうちから家事も仕事も一通り済ませて臨んだ当日、アト坊は早朝からご機嫌で元気モリモリに部屋中を駆け回っていた。朝ごはんもヨーグルトにパンをディップ(一丁前に小指を立ててスティックパンを握る様子がツボである)して美味しそうに完食した。

「よっしゃ!今日は予定通りに動ける!」

順調に朝のスタートをきっている息子の姿を見て小さくガッツポーズをした私であった。

子供が通園バスに乗り込み窓越しに満面の笑みで手を振る姿を見送ると、山沿いにある自宅までの獣道のような階段を3段抜かしでダダダダッと駆け上る。

早々と晩の食事の下拵えを済ませ、メールのチェックも済ませ、素早く身支度。電車の時間を確認し、玄関の扉を開けて再び外へ!!!

さながら気分はミュージカル映画のヒロイン、両腕を翼のように広げながら下界に続く長い長い階段を爪先でリズムを取りながら軽やかに駆け降りる。

ついでに下手な鼻歌も奏でる。今日は最高の日になる予感!

最後の段を降り、いざ最寄りの駅の方向へと足を向けた瞬間だった。

 

(チャラララ〜チャララ〜?)

 

ポケットに入れていた携帯から激しい振動とともに着信音が鳴った。

ギクッと全身が固まる。震える手で携帯を取り出し電話に出る。

「あっ…お母さん!〇〇園の担任の△△です。お伝えしたいことが…。」

もうその声色で一瞬にして先方のお伝えしたいことがわかった。

「言うな!その先を言ってくれるな…!わらわは聞きとうない!」

心の中で咽び叫んだ。

「アト君がですね、急にお熱が出ちゃいまして…。お母さん、すみませんがお迎えお願いします!(すごく申し訳なさそうな声色)」

「ガーーーーン」

漫画でしか見たことのないセリフが自分の口から溢れでた。

何だったら顔に縦縞の線も浮かび上がっていたかもしれない。

こんな時、我が子への心配と同じ速度で古本行脚断念の悲しさが沸き起こるので、「まぁ!なんて非道い母親かしら私!」と毎回罪悪感に苛まれてしまう。

電話を切ったのち、空を見上げた。雲ひとつない青空だ。絶好の古本日和だ。あ、トンビが気持ち良さそうに飛んでる…。ワタシハトリニナリタイ…。そしたらあの古本屋まで今すぐひとっ飛びで行けるのに…あんな本こんな本が私を待っていたのかもしれないのに…のに…のに…―――――・・・・

 

この気持ちに一旦踏ん切りをつける為に10秒ほど目を閉じたのち、既に踏み出していた右足を駅とは反対の方にクルリと回転させ猛ダッシュで園に向かう。走っても30分のなかなか長い道のりだ。

汗だくになって駆けつけると、鼻水を両サイドの穴から滝のように流しながらケタケタ笑うアト坊が先生に抱き抱えられてやってきた。38℃あるも思ったよりも元気そうな様子にホッと吐息が漏れる。

病院で薬を貰って13キロの我が子をヒィヒィゼィゼィ抱えて帰宅後、オヤツにプッチンプリンを冷蔵庫から取り出し、「今日はお熱が出てるから特別待遇だぞ…ほれ」とアト坊にスプーンと一緒に手渡す。

「プリィィィ!プリィィ!」と叫びながら狂喜している姿を眺めながら「君、ホントに病人?」と疑う私の心にはまだ古本漁りへの未練が残っていた。

そうして、いざ実食!とアト坊がスプーンで思いっきり掬い上げたプリンの塊がボタっと机の上に落ちたのだが、その後の風景が大変素晴らしかった。

一瞬無表情になった彼は、つんのめらせた唇を机に近づけ、掃除機のようにズズズズズ…とプリンの破片を口の中にバキュームしたのである。チュポン!と瑞々しい音を立てて彼の口に跡形もなく吸い込まれていった落下プリン。あ…尊い…。

その見事な一連の動作に「まだこの世に生まれて2年しか経っていない生き物」が自ら編み出した行動に静かに感動してしまった。

この時点でようやく、久々の古本行脚がオジャンになってしまった溜飲も下がったのであった。

 

さて、この原稿は日曜の夜のファミレスで書いているのだが、こうして半年を思い返してみると、かれこれ5回はロシアンルーレットが的中するかのように、たまに企てる古本行脚予定日にアト坊が発熱をする事態になっていることに気づく。もしや〝古本買い阻止の神〟なるものがこの世には存在しているのかもしれない…。

そんなことを考えていると、私の後ろの席に同世代らしき女性二人組がやってきた。

パンケーキと山盛りポテトフライ、そしてアイスコーヒーを机に並べて話に花を咲かせている。久々に会う友人同士なのだろう、お互いの近況報告をしながらも話題の中心は子供の話だ。保育園での話、兄弟の話、貯金の話、端々に夫に対する愚痴も織り込まれ、盗み聞きしているつもりはないのに共感する話もあって、ついつい心の中で小さく頷いてしまう。

あぁ、この二人も私と同じように子供を寝かしつけしてから、ひとときの自由時間を謳歌しにきたのか。

私にはママ友はいない。いなくても不自由しないから人の輪に自ら進んで入って作ろうとは今のところ思わない。

こういう、たまに遭遇する同志とのささやかな出会いがあるだけで十分だな、と感じるのだ。

今宵、いっときの時間に同じ空間に居合わせた見ず知らずの彼女たちに私は小さな安心感を与えて貰っていた。

「見て見て、靴下、ホラ、毛玉だらけ。ヤバくない?」

一人がおもむろに笑いながらパンプスを脱いで見せている。

「わかるわー、子供のを優先して買っちゃうから自分のものって後回しにならない?でも、自分へのご褒美に高いお菓子をたまーに通販でコッソリ買って、旦那にも子供にも内緒で自分だけで食べてるけど。」

ドッと笑い声が上がった。

彼女らにとってのお取り寄せグルメがきっと私にとっての古本なのだろう。

 

その後タフな母親達のたくましい(?)話に聞き耳を立てている内に、すっかり古本買い阻止の神なんぞたいしたこたぁない!という気分になっていた。

彼女らが帰った後、もう夜更けだというのに気分が高揚してしまった私は、彼女達が食べていたのと同じパンケーキを追加で注文した。

あぁ明日からまたドキドキな1週間が始まる。

小さなご褒美(古本)で何百倍も頑張れるくらい燃費良くいきますから、どうかそんなささやかな時間がどこかにある1週間になりますように…!そう念じながらドリンクバーの機械の前に立ちホットコーヒーのボタンをギュッと押したのだった。

 

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。

幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。

肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。

大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。

(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)

著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。

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