2023.04.27
コラム
「俺さぁ、今日4年ぶりに本買ったよ。」
帰宅した夫からポロリと漏れた台詞を聞いて、夕飯の焼き魚をグリルから皿に移し変えようとしていた私は思わず床に熱々の塩サバを落としそうになった。
「えぇ!?」
サザエさんに登場するマスオさんのような声が喉の奥から出た。
夫がどんな新刊本を買ったのかここで詳細を綴るのは無意味な宣伝になってしまいそうなので横に置いておくとして、それにしても…驚いた。
信じられない…。そんな長い期間本を買わない人間がいるんだ。しかも身近にいた…!
コロナ禍での古本活動も板につき、ネット漁書もお手のものになった私なんか本を買わない日は皆無だし。そして恐ろしいことに、そのような生活を送っていると世の中の大体の人は少なくとも月に二、三冊は何かしら本を買っているだなんて思い込みが完成されてしまっていたのである。
だって、本って…面白くない?!探すのも楽しい、手に入るのも嬉しい、しかも賞味期限がないから好きな時に何度だって読むことも出来るじゃん!最高の娯楽じゃんよ!
という具合で、自分の感覚を当たり前に軸にして生きていると、時折このような小さな衝撃が日常生活の中で突如姿を現すのである。
普段は一歳児以外の他者と交流することのない私にとって、このように時として〝多様性とは〟を学ばせてくれるダイバーシティー教師である夫は、驚く私に「いやいやいや、俺みたいに本を買わない人は普通に沢山いるって。」とコメントを添えて塩サバが載せられた皿を黙って受け取った。
出会ってもうかれこれ10数年以上だけど、やはり夫とは言え他人のことはどれだけ時間を積み重ねてもその全てを理解することは出来ないのだなぁと、なんだかザワザワした心持ちで味噌汁を椀によそったのだった。
夫曰く、ネットで自分が必要とする情報はほとんど手に入るからiPhoneさえあればわざわざ本を買う機会なんて無い、だそうだ。
好きな作家の本だったらまだわかるにしても、装丁が美しいから欲しくなる等といったコレクター心理はよくわからない。わかろうとも思わない、とのたもうた。
なるほど、私が影でミニマリストと揶揄してしまう程に物に執着がなくデジタルに精通した彼に相応しい回答だった。
確かに、夫は常に携帯を眺めている。故に情報通だ。
1週間くらい前に話題に上がっていたニュースを遅まきながら知って、新鮮に飛びついている私を「…え?いまさら?」と鼻で笑ったことも何度あることか。
子供の世話を任している時にもその〝携帯が恋人〟スタイルを貫こうとするので、「携帯画面じゃなくて今この瞬間しか見れない我が子の可愛さをじっくり眺めなさい!」と幾度となく夫に対して般若の形相になったこともある。
彼の携帯カバーは息子により何度もシール貼り貼りの刑に処せられ続け、今ではファンシーなアート作品と化している。
夫からすると古本を主食にして生きているような私のような人間(しかも買った本はほとんど読まないときた)こそが信じられない奇怪人に映っているのだろうが、この日ばかりは夫に異星人を見るような眼差しを注いでしまった。
それから数日後、20代の学生やフリーターの若者達と大勢で話す機会が偶然あったので、思い切って本に関する話題を投入してみることにした。
「最近買った本ってある?」
どの子も流行りに敏感な様子でフレッシュな雰囲気が溢れ出ており、そして私よりも一回り以上年下。果たしてどんな回答を得られるのかワクワクした。
「本ですか?いやー買ってないなぁ全然。まず本屋に行くこと自体が無いかも。あ!でも携帯で配信されている電子漫画とかは読んだり話題作はチェックしてますよ。」
「えぇぇぇぇ…そぉ……」
多少想定していたものの、夫の時と同様の衝撃が私の胸を通過した。
じゃあさ、ちなみにさ、みんな何が楽しい?普段は何をして楽しんでいるの?
滅多にない異文化交流と言わんばかりに彼らに質問を続けた。
驚いたことに、そこにいる全員が「強いていうなら音楽鑑賞や映画鑑賞(NetflixやAmazon primeなどを利用した)かな」と答えた。
おまけに本を読むより断然コスパがいいと口を揃えて言うのだ。
活字の本を読むのは時間がかかるし、感想を誰かと話して共有するのはハードルが高い、だけども映像やら視覚や聴覚で楽しむ娯楽の方が他者と気楽に意見を言い合ったり自分の感情を表現しやすいから、とのことだった。
コミュニケーションありきの幅広い交友関係を持つ彼らにとって、これは真逆の環境で生きている私にとっても十分納得のいくわかりやすい理由だった。
「て言うか、逆にカラサキさんはなんでそんなに本が好きなんですかぁ?」とその後、藪から棒に投げかけられた質問に対してはモゴォモゴォとしてしまった。
結局うまく説明することができないまま、その日の集まりは終わってしまった。答えられなかった理由としては、若者相手に年上の自分が調子に乗ってそれらしい言葉を並べ立てて熱弁を振るってしまうかも知れぬという恥ずかしさが浮かんだのもあるが、何より、本に対する価値観が自分とはまるで異なる彼らに理解してもえるような説明が出来るはずがないと怯んだのだった。
過去に出版した著書には「本は自分を表現してくれるツールであり、本棚は自分はこんな人間だと代弁してくれる存在」と書いた。
そこから時を経て現在、子供が産まれて母親として子育てに追われる日々が始まり、本を買い集める行為に対して「将来子供が大きくなったら読むかも知れないから」といった新たな理由も加わるようになった。
そして最近、明確に自分の中で新たに芽生えてきた感情がある。
私は〝自分がこの人生で得られない体験〟を本に重ねて掻き集め、そして所有することで補いたい、のだ。きっと。
実体験に勝るものは無し、とはよく言うが、だが現実的に考えると実際に生身で経験できる〝体験〟は限られている。
体験したいという欲求が浮かぶと同時に、時間や金銭や体力の事情によって叶わないことの多さもセットで考えさせられ、つい人生の儚さを痛感してしまう。
知らないことの方が圧倒的に多いまま、人はやがていつか人生を終える。
生きている限り生まれてくる欲求は数知れない。
その尽きぬ欲求を違った角度から満たしてくれるのが本という存在だと、私は30代を過ぎて子供を産んでしみじみ思うようになった。
例えば今、海外に長期間の旅に出たいとする。
でも子供も小さいし、そんな時間もお金もない。100%不可能だ。あぁ、残念だ。旅に出たらどんな面白さや感動が味わえるのだろう。なんだか焦燥感に襲われて気分が少しブルーになってきた。
そんな時に本棚を眺めるのだ。棚には色んな作者の旅行記が並んでいる。
背表紙を眺める。そこで私はすっかり穏やかな気持ちになる。
実際には行けなくてもいつでも好きな時に本のページを開きさえすれば、他の誰かの目を通して旅の気分を味わうことが出来るから。
最近、エッセイ本や日記本が読書好きの間で話題に上がるのもきっと、これに似たような感覚があるように思う。
自分が送れる人生は一度しかない、けれど他者の日常を文章を通して知ることで自分が歩むことのない人生の片鱗を味わうことができるから興味深いし楽しいのだ。
本を読む楽しさを説くとか、本のカルチャーを若者に普及させたいなんて思いは私には微塵もない。元来、人と交流することが苦手で一人で好きな世界に埋没できるから本が趣味になったわけで。興味がなければそれはそれで良いし、個人個人が好きなように自由に楽しめば良いと思っている。
ただ、我が子に対しては親の我儘だとは重々分かっていても〝本で知らないことを知りたい、初めての体験をしたい〟そんな欲求を持つ子に育ってくれたら嬉しいなと思う。
20代の若者たちとの交流を終えた翌日、休日の昼下がり。
リビングで夫はいつも通り寛ぎながら携帯の画面を眺め、私は一生訪れることは無いであろう異国の地の風景を写した写真集を眺めている。
ページを眺めながら旅人の目線になり雄大な景色に「ほぅ…」とため息をつく。
そんな私にトコトコと近づき、両手で「ん!!!(これ読んで!)」と嬉しそうに絵本を差し出すアト坊。
もうすぐ2歳、本に興味津々な傾向が増してきて母としてとても嬉しい今日この頃。
我が子のこの瞳の輝きが、どうかこの先も大人になっても変わらず煌めき続けてくれますように…そう期待を膨らませながら、アト坊を膝に乗せてハリキッテ絵本のページを開いた私であった。
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カラサキ・アユミ
1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。
幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。
肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。
大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。
(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)
著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。
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