コラム

2023.03.28

コラム

カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第16回「人差し指のおまじない」

子供の寝かしつけをしながら真っ暗闇の寝室で、いつも私は色々なことを考えたり思い出したり頭の中で取り止めのない思想を揉んだりこねたりしている。

 

一歳十ヶ月になる息子アト坊は最近特に感激屋さんだ。

道端に転がっている空き缶、空を飛ぶカラス、歩行者信号の押しボタン、散歩している犬、目に映る全てのことはメッセージ(※ユーミン)と言わんばかりに何を見ても「ンあぁ!!!」と叫び目を輝かせながら指をさす。

何だかとてもいいなぁ、歩く好奇心の塊だなぁと思う。まだハッキリと言葉は喋らないが、日々小さな体で目の前に広がる世界を一生懸命に吸収して消化しようとしている姿には胸にクるものがある。

たまに地面に落ちているタバコの吸い殻や犬のフンを嬉々として拾いにかかるのは勘弁願いたいが。

 

先日も一緒に近所を散歩していたら、突然歩くのをやめて何やら一心不乱に見つめている。

彼の視線の先を辿ると、よそのお宅の窓際で猫が日向ぼっこをしている姿があった。住宅街の一部にあまりにも自然に溶け込んでいる風景だったので私だったらきっと気づかなかった。子供の観察力はすごい。「よく見つけたねぇ。猫ちゃんだね。」と思わず驚いて反応すると、得意げに私の顔を見上げながら「あ!あ!」と指をさしていた。

 

これなに⁈ 好き! 嫌い!

幼児は周囲を、誰を、意識するわけでもなく感情を素直に表現する。行動もまた同様だ。自分が何を知らないかも知らないから、とりあえず思うままに体を動かす。阻むものがないからこそ子供が持つ可能性は無限大だ。

こんな風に純真無垢な子供と毎日一緒に過ごしていると、どうしても大人である自分と比較してしまう癖がついてしまった。不毛な行為だ。それでもやらずにはおれない。理由はわからない。歳を取るうちに自分が置いてきてしまったものや失ってしまったものを探したいのだろうか。

 

子供時代からはじまった私の古本趣味も成長と共に変化を遂げてきた。

子供の頃は知らないことの方が多かったので古本との出会いに対する喜びが今よりも濃かったとか、それでも新しい知識を得ることで喜びの質が年々アップグレードされていっただとか、大人になるにつれて古本に使える金額も増えて買える分野の選択肢が広がったなどなど、ベクトルで例えるとずっと上昇を続け童心で突っ走ってきた我が古本精神史である。

 

だが、最近生じている変化には正直寂しさが付きまとう。

そしてベクトルは下降してはいないものの平行線を保ったままだ。

例えば、本を買う行為にこれまで疑問なんて思い浮かばなかった。

欲しいから買う、持っているだけで幸せだから買う。

買った後のことなんか考えたこともなかった。

しかし段々と年月が経つにつれ、そして未来溢れる息子と過ごす日々の中で少しずつ先のことを現実的に考える場面が増えてきた。

自分が死んだらあの世には一冊も持っていくことはできないんだよなぁ…なんか…なんだか切ないなぁ。目の前に積み重なる大切な本達を前に、そんな無常感もふと覚えるようになった。

そして、本を読む行為には歳を重ねるにつれ労力と時間が必要だということも段々わかってきた。これまで老後の楽しみと言いながら嬉々として買い集めてきた本達は、果たして老後の楽しみとしてその存在を全うすることが出来るのだろうか。

自宅にある本達は恐らく一生かかっても読み尽くすことはできないだろう。

本の量から己の人生の限られた時間を思い、憂う。

今の自分は全ての収集好きが通過するであろう分岐点に立っているのかもしれない、、、、、、、

 

こんな風に漆黒の闇の中で時として出口のない思索に耽るのだ。

気がつくと、先ほどまで「俺はまだ寝らんぞ」とあっちこっちと転がっていたアト坊はすっかりスースーと寝息を立てていた。暗闇に慣れた目に映りたる我が子のアクロバティックな寝相を確認して毛布をかける。これにて1日のミッションクリアだ。終わった終わった。

寝室の扉を開けて抜き足差し足でソッと階下に降りる。

台所に向かうとフワッと珈琲の香りが漂ってきた。夫が丁度お湯を注いでいるところだった。

さて、私もお相伴に預かろうかと席についた途端、テーブルの上に置かれたあるモノを目にして私はギクリとした。

そうしてそれは、まるで逮捕状をかざすようにゆっくりと目の前に突きつけられた。

「この包装紙…、また沢山買ったの?」

夫が手にしていたのは昼間私が破り捨てたものだった。

 

その日ポストに投函されていたのはネットで購入した古本3冊。

奇遇にも同じ日に別々の場所から注文した本たちが一気に届いていた。

ポストに詰め込まれた茶色い小包達を手に取るやいなや小躍りしながら玄関に靴を放り出し、指先で勢いよくビリリと包みを破いた時の私は確かに、無敵の人になっていた。「ワタシは今最強にルンルン!」

そんなテンションで台所に置いていた地域指定の可燃ごみ袋(半透明)にバサァァ!と瓦割りの如き勢いで、不要になった包装紙を突っ込んだ。

おまけに破ってグチャグチャにしたせいでゴミ袋の中の紙ゴミは異彩を放つボリューミーさと化していた。

その後、買った本は夫に見つからぬよう押し入れの中に隠したものの、肝心の品物〝本〟とバッチリ記載された配送伝票が付いたままのこれら包装紙はパックリと口が開いたゴミ袋から丸見えの状態だったわけだ。

帰宅した夫からすると「ヌハハ!また古本買っちった!笑」と妻からアピールされているようなもんである。おマヌケ極まりない。

「頭隠して尻隠さず!」

己の痛恨のミスに心の中でツッコミを入れた。

 

そんな私の一連の動作を見透かしたような表情の夫は

「詰めが甘いんだよ…」

こんなにピタッとハマる状況あるかとしみじみしてしまう台詞を吐いて、自分の分の珈琲だけ淹れ終わるとリビングへと去っていった。無論わたしのマグカップは出されていなかった。

「ふーンだ」

漫画に出てくる台詞をリアルに日常使いする34歳ここにあり。

 

だが、夫の〝目ざとさ〟を責める筋合いは私には無い。

証拠隠滅作業を怠った私が悪いのだから。

それにしても、内緒の古本買いが思いがけずバレた後はなんとも言えない気分になる。子供を産む前はここまで動揺することはなかった。母親という立場になったからだろうか。

自分で物事が完結するうちは「欲しかったんだもん。しゃーないじゃん?」と、そこまで特に感じ入ることはないが、他者が介入すると途端に深刻な問題に取って代わる。

おまけに先ほどまで暗闇の寝室で思い浮かべていた無常思考までもが追い討ちをかけてきた。

まだいっそ胸ぐらを掴まれて「オメェさんよぉ!今度また古本買ったら代わりに一冊捨ててやっかんなぁ!覚悟しとけよオルァ!」と言われた方がどれだけ心が楽だろうか。だが、心優しい夫は絶対にそんなことはしない。(いや、もはや怒ることに労力を使うのが無駄と思っているのかもしれない)

真綿で首を締めるように夫から静かに諭されるたびに、私は未熟な自分と戦わなければならないのである。

「あなたは救いようもない欲望に弱い人間ですね。このままでこの先大丈夫ですか?」と。いやいや、考えれば考えるほど怖い怖い。

 

戸棚から自分のマグカップを取り出し、テーブルに残されたドリップバッグを乗せてお湯を注いだ。新しく粉を投入するなんて今の自分にはおこがましい行為だ、出涸らしがお似合いなんだこんな私は。

コップに流れ落ちる珈琲の色の薄さ。

出涸らしの珈琲は締まりのない中途半端な味がした。

気を取り直そうにも取り直せない夜のティーブレイクタイムが過ぎる。

こんな自分に甘い人間が人一人立派に育て上げられるのか…そもそも我慢という概念を教えることなんてできないのでは…なんて自虐的な考えまで沸き起こってきた。

 

背中を丸めて珈琲を啜りながら保育園の連絡ノートをなんとはなしにパラパラとめくり眺める。ワイルドにアグレッシブに、そして楽しげに過ごしている様子が細かく綴られている。何度読み返しても面白い。への字になっていた口元が思わず緩んだ。

ふとアト坊の小さな人差し指が思い浮かんだ。

あの輝く無垢な指先は、先のことなんてこれっぽっちも考えていない。

明日の朝、起きてきたアト坊の顔を見たらこんな暗い気持ちも吹っ飛ぶだろう。

その場に流れる陰鬱な空気を切り裂くように「ダイジョーブダイジョーブ」と呟きながら自分の右手の人差し指を掲げて指揮者のようにブンブンと振り回したのだった。

 

——————————–

カラサキ・アユミ

1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。

幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。

肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。

大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。

(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)

著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。

——————————–