コラム

2022.12.26

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カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第13回「冬の訪いと幸せの輪郭」

寒い。今年の冬も心の準備ができていない状態で突然やってきた。

春夏秋冬が毎年規則正しくやってくるのはわかってはいるのに、毎度冬の訪れだけは慣れることはない。そして両手を広げてこの季節を迎え入れることも私はなかなか出来ない。

寒さに尻を叩かれるようにウールのセーターやマフラーを慌てて引っ張り出す。

 

冷たい空気のせいで疲れたり落ち込んだり、一年が着々と終わりに近づいているという現実と共に流れた時間の重みを嫌でも認識させられ不意に焦燥感に駆られたりと、感情が忙しくなるのもまた冬ならではの現象だろう。

 

だが、冬は幸せの輪郭を捉える感覚が研ぎ澄まされる季節でもある。

寒空の下で頬張る熱々の肉まん、荒涼とした海が広がる車窓を眺めながら移動中に飲む缶コーヒー、公園のベンチで座って飲む紙コップに入ったホットココア、それらの美味しさはどの季節をおいても冬が一番際立つ。

 

幸福を味覚に例えるなら、何かと比較して得る幸福よりも自分の五感で見出した幸福の方がやはり圧倒的に濃厚で美味しい。

冬はささやかな幸福を美味しく噛み締めることが出来る絶好シーズンなのだ。

 

例えば、喫茶店で珈琲を飲みながら買った本を袋から取り出し眺める瞬間に訪れる幸福な気持ちは、きっと世の多くの愛書家が知っているであろう美味しさだ。

これが寒さが身に染みる冬の時期での場面ともなると、その風味はさらに格別なものとなる。

 

寒風吹き荒ぶ道を歩く一人一人にもそれぞれの幸福の場面がある。そんな風に考えると冬の街の景色も何だか楽しく映る。

試しに夫に冬はどんな時に幸せを感じるのかと聞いてみると、風呂に入った瞬間、そして布団に入った瞬間と答えが返ってきた。うん。シンプルでいて大変共感できる。ちなみに私はねぇ、と今度はこちらが意気揚々と話そうとしたら「それでは今から俺の幸福時間なので…」と話も聞かずにさっさと寝室に向かってしまった。

 

私は自分に自信が無くなった時や調子が良くない時に眺めるものがある。

それは自宅の壁一面の本棚だ。元は押し入れがあった場所で、工務店に頼んで床の強度を増す施工をしてもらい頑丈な棚を作り付けてもらった。

最初はスカスカだった棚が、8年も経つと全ての空間に本がパンパンに詰め込まれ、あぶれた積読タワーがつくしの様に本棚の前に群生するカオス漂う風景となった。

並ぶのはどれもこれも一冊一冊思い入れのある本ばかり。まさに剥き出しの宝箱だ。

「あぁなんだか気分が上がらないな…」そんな時は仁王立ちでこの本棚の前に立つ。並ぶ本達の姿をしみじみと眺める。

「ご覧よ!うわぁ…なんて素敵かしら。私はこんなに素晴らしい本達を持っているんだ!あの本もこの本もどの本も最高だぞ。私はなんて幸せ者なんだ!!」

心の中でうっとりと歓声があがる。やがてどこからともなくホカホカとした幸福な気持ちが温泉のようにじわわ〜と湧き出てくる。室内が寒ければ寒いほど、その温かな感情は勝負に受けて立つと言わんばかりにホットに感じられる。

特に訳もなく気分が沈むことが多い冬場における私のお得意の幸福抽出方法だ。

 

そんなことを書き綴りながら突如思い出した出来事がある。

以前、これも冬の出来事だったが、「結局あなたは古本が好きな自分のことが好きなんですよね?」とネットで面識のない人から突然メッセージをもらったことがあった。

先方はささやかな悪意を込めた嫌味のつもりで言い放ったのだろう(この場合は書き綴るという方が正しいか)、だが受け手の私はというと「何を当たり前のことを改めて教えてくれてんだろうこの人は…はて?」と思いながら「はい!大好きです!」と勢いよく回答した。先方からの返信はついに無いままだった。

好きな世界を持っている自分のことが好きであるのはとっても素敵なことではないか。

だが、今ではそんな自分愛を語る私ではあるが、実は子供の頃は自分のことがあまり好きではなかった。結果的に今に至ることが出来たのは色んな経験もあるのは勿論だが、やはりなんと言っても古本屋の存在が大きかった様に思う。

 

両親、特に母親が熱心な教育精神を持っていたというのもあり、子供時代の私は親が敷いたレールを従順に歩いていた。

転勤族だったので、小学校は数回変わった。表面上の友達は出来ても、親密な友人はいなかった。どの小学校でも図書館が一番好きな場所だった。

低学年から中学受験を見据えた塾通いが日常となり、今の私だったら「ひょえーー無理無理無理ぃーー!」と言いながら逃げ出したくなる超過密スケジュールの中で生きていた。決して優秀ではなかった自分が目標を遂げるには人一倍の努力が必要だった。健気に机に向かう日々を送っていた。

 

いつも自由に振る舞い時折母親を怒らせていた兄の姿を身近に見ていて、大人のいう通りにしておくことが無難、逆らったら面倒なことになる、そんなことを妙に理解した気になっていた小賢しい子供だったと思う。その結果周囲の人間の顔色を伺うことが当たり前になってしまった私は、物事を決めたり選んだりする作業が苦手になっていた。他人の意見に巻かれたり多数の意見に流されたり、様々な場面で優柔不断を発揮した。何を考えてどうしたいかがいつも不透明な自分に好感を持てないでいた。

そんなダークサイド寄りだった子供がいつになくはしゃぎ浮かれたのが、自分の誕生日とクリスマスが合わせてやってくる12月だった。

それらのイベントで貰うプレゼントの中で一番嬉しかったのが祖父母から贈られた図書カードで、その額3,000円。子供にとって大金だ。

そして、その図書カードを父に換金してもらおうと悪知恵が浮かんだのは小賢しい私らしい、あまりにも自然な成り行きだった。

父は深く追求しない性格で娘の頼み事に快く応じてくれた。

なんとなく母に知られたら気まずいような気がして、コソコソと闇取引のように父から千円札を3枚受け取った瞬間のあのスリリングな感触と背徳感。

なぜ現金化したかというとちゃんと真っ当な理由があった。

少しでも沢山の本を手に入れたかったからである。

既に当時から新刊書店も好きだったが、やはり安く色んな本が手に入る古本屋の方が圧倒的に好きだった。塾通いの毎日で学校の外で友達と遊ぶこともほとんどなかった自分にとって、本は娯楽であり最高の友だったのだ。

 

母は息抜きと称して休日によくドライブに連れて行ってくれた。綺麗な景色やレジャースポットよりも、道中たまたま見つけた古本屋に寄ってもらった時の記憶の方が年月を経た今も鮮明に残っている。特に冬場に訪れるロードサイドの古本屋は倉庫のような出立ちで店内の暖房が行き渡っていないことが多かった。

手を擦り合わせ温めながら、ワクワクしながら通路を進む。貯金箱から取り出しポケットに捻り込んだ皺だらけの千円札数枚の存在を時折確かめながら、棚を見回す。寒さでかじかんでいた指先がやがて熱くなってきた。

たくさんの初めて目にする本達の中から自分が好きだと思うものを選ぶ楽しさ。

誰に指図されるわけでもなく、自分の感覚に自由に従う面白さ。

そうして手に入れた本から知る新しい世界や思考。

その作業を繰り返し積み重ねていくうちに、自分の心が豊かな彩りに色付けされていくような気がした。

やがて、本を通して幸福な気持ちを味わうことが出来る自分のことがすっかり好きになっていたのだった。

この子供時代の体験の蓄積が今日の私の古本愛の柱にもなっている。

 

人はこんな風に振り返る生き物だ。

一年最後の12月は特にその行為に拍車がかかる。今までどんなことがあったかな、そういえば昔こんなことがあったなとぼんやりと過去を掘り起こしていくと、いつの間にか芋づる式に様々な記憶が姿を現す。

冬は幸福の輪郭を捉える感覚が研ぎ澄まされると冒頭に綴ったが、同時に取り留めのない過去の出来事が愛しく光って見える季節なのかもしれない。

 

ところでこの原稿を書き終えた後、冬の定番夜食であるアルミ鍋の焼きうどん(それも卵を真ん中に落とした豪華版!)を食べる予定だ。

薄暗い極寒の台所でうどんをずるずる啜りながら吐き出す真っ白な息、それもまたささやかな幸せの象徴の一つ。

アルミ鍋から立ち上る湯気を吸い込みながら、私はまたしてもしみじみと振り返りの思考に浸るのだろう。その時間は静かでありそして賑やかだ。

そうして、今年もいつの間にか冬という季節をすっかり迎え入れている自分に気づくのである。

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。

幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。

肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。

大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。

(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)

著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。

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