コラム

2022.07.26

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カラサキ・アユミ氏 コラム 子連れ古本者奇譚 第8回「本棚に種を蒔く」

SNSで子供との日常をしょっちゅう投稿しているせいか〝子育てに関するトピックス〟が頼んでもいないのに勝手にオススメで表示されるようになった。

その中には役立つ情報もあるが時に「親の意見や価値観を子供に押し付けては駄目」といったフレーズがナチュラルに視界に飛び込んでくることもある。

これらを目にする度に私は思わずギクリとしてしまう。

 

我が息子、アト坊は一歳を過ぎたあたりからよちよちと自力で歩けるようになった。まだまだ危なっかしいが、力強く大地を踏み締めて歌舞伎役者のように腕を挙げてバランスを取りながら一歩一歩進む姿は、もうすっかり赤ちゃんを卒業して幼児だ。

絵本を並べた本棚から本を取り出すのもお手のもので(ヤンキー座りの後ろ姿は哀愁すら感じさせる)、掴んでは勢い良く床に放り投げる。本の中身よりも人差し指でページを開く行為の方が面白いらしく、しょっちゅうめくっている。

そして困ったことに、前世はヤギか?と突っ込みたくなるくらい紙を食べる。我が家の絵本のどの背表紙にも蔵書印のようにアト坊の歯形が刻まれている。もちろん、静かになった後ろ姿やほっぺたの動きで察知してすぐさま口から吐き出させるのだが…。(なので今はまだ硬いボード型の絵本しか与えることが出来ない)

本の読み聞かせはするも、大人しく聞いてはくれない。絵本を開こうものなら母の手から奪い取ろうと毎回レスリングのような格闘が繰り広げられる。よく、お洒落な育児雑誌で見かける〝子供と過ごす絵本の時間♡〟なんて見出しが付けられた「ママと赤ちゃんが笑顔で一冊の絵本を一緒に眺めている微笑ましい写真」とは全く無縁の荒々しい世界を、今日も我々親子は生きている。

 

どうやら彼が本をおもちゃではなく〝読み物〟として認識する日はまだまだ先のようだ。

それでも毎日アト坊の顔を眺める度に「将来はどうか本が好きな子に育っておくれ…」と心の中で呪文のように呟いている。

果たしてこれは古本趣味を持つ私のエゴなのだろうか。でも本を好きな方が絶対楽しいよ!…ん?待てよ、これこそ価値観の押し付けになるのか?いやいや、まだ何も強要していないから違うか。あぁ、なんだか頭が疲れてきた。

でも考えてみたら自然に本を好きになってもらうって一体どうしたらいいんだ…?

 

そこで思いついたのが子供の目線になってみることだった。

とは言え子供の気持ちになるには30もとうに過ぎた身にはなかなか厳しいものがある。だが自分の幼少期や過去の記憶を振り返り、それら実体験を今後の本好き育成の参考にすることは可能だ。

 

私の子供時代は身近に本があるのが当たり前の環境だった。本好きの母の書斎は格好の遊び場だった。同い年の友達のような本、憧れの綺麗なお姉さんのような本、学校の先生のような本、近所に住む変わったお婆さんのような本…まるで個性豊かな人間模様のように色んな背表紙が沢山並んでいた。まだ内容がわからずとも眺めるだけでワクワクしたものだ。

人によって様々な考え方やモノの見方があるという大切なことを教えてくれたのは本だった。賑わう輪の中にいる楽しさも知ってはいたが、私は一人でいることを好む子供だった。孤独を肯定してくれたのも本だった。

 

本、本、本、、、、あげたらキリが無いくらいの大勢の思い出達が私の頭の中で踊っている。

 

母が「こどものとも」を定期購読してくれていたので、毎月一冊新しい絵本が届くのが楽しみで仕方なかったのが、私の一番幼い頃の本との記憶だ。郵便受けに絵本が入った茶封筒が届いているのを見つけると飛び跳ねて喜んでいた。

確か幼稚園に通い始めた頃なので3歳くらいだろうか。

 

小学生の時に本屋で初めてねだって買ってもらったのは天体図鑑。夜空を見上げるのが好きなロマンチック少女だったのである。図鑑を夢中で眺め宇宙の底知れぬ神秘に胸を躍らせ、同時に真っ暗な無限の世界を想像して恐怖で眠れない夜もあった。

 

中学生になる頃には学校の帰りや休日に一人で古本屋に行くのは当たり前になっていた。安い均一棚の前で琴線に触れる本を目を凝らしながら探す作業が楽しくてたまらなかった。少ない小遣いでもテーマパークで遊び尽くしたくらいの充足感を味わえた。

100円の本から大切なことからくだらないことまで実に様々なことを学んだ。

 

小さい頃に眺めていた母の本棚は、私が本を好きになるキッカケを与えてくれた紛れもない存在だった。

知識が知識を呼び、視野が広がると目線が新たに変わり、そして好奇心や探究心はどんどん膨らんでいくものだと知った時の喜びは、未だに私を幸せな気持ちにさせてくれる。

 

絵本や画集は美術館に、活字の本や漫画は24時間年中無休オールタイムの映画館にだってなり得る。時に一冊の本が人生の分岐点になることだってある。

自分が経験したからこそ、この面白い世界を息子にも是非味わって欲しい。

 

「例えば…」と、アト坊が成長した姿を想像しては私の妄想は膨らんでゆく。

我が家のベランダからは海を行き交う船が毎日見える。もし船に対して興味が湧いた彼が本棚に目をやった時、船舶図鑑や船の絵本が並んでいたらどうだろう。きっと目を輝かせて本を手に取るに違いない!

こんな風に本の世界に触れる機会を繰り返していくことで本好きの精神が自然と花開くのではなかろうか…!

 

だが予想通りにはいかない結果も承知だ。なぜなら自分の例がある。

私の母は英語の教師をしていたが、娘の私は生粋の英語嫌いに成長した。

自宅で開催されていた子供英会話教室にも参加していたが、毎回金切り声で「イエース!オーイヤァー!」と叫んでふざけまくっていたので怒られた記憶しか残っていない。

今のアト坊に対して私が本好きに育って欲しいと思う気持ちと同様、英語好きになって欲しいと願いながら育ててくれた母は未だに悲しげな表情を見せる。そしてここまで古本狂いになるとは想像してなかったよ、と呆れながら言ってくる。

そう、やはり子育てには想定外がつきものなのだ。

アト坊だって将来もしかしたら案外コンピューターマニアになるかもしれない。

 

となると、正解かどうかはさておき、私がしてあげられる最上級の作業はやはり色んな世界に繋がる本棚を育てていくことじゃないだろうか。強制も強要もしない、好きな時に好きなように、常に自由に開かれた、私が子供の頃に見上げたあの母の本棚のような。

 

原稿を書きながらサークルの中で一人遊びをしている息子に視線を向ける。

空のペットボトルをしげしげと見つめたり振り回したりとかれこれ30分は遊んでいる。我々大人から見たらただのゴミでしかないこの物体に、彼は一体何を面白いと思って注目しているのだろうか。

子供の目線や発見は無限大だ。

そんな様子を見ていると、こちらとしてはこれからアト坊の中に芽生えるであろう好奇心を満たしてあげられるような本達をジャンル問わず手当たり次第に準備してあげたくなる。

日々成長していく子供の姿を見ながら古本炎は燃え上がっていくばかりだ。

読めるのはまだ随分先だというのに、せっせと「いつかこの子も読むかも」と大義名分を振りかざしネットで面白そうな古本を先ほども数冊注文した。

そして届いた本をまるでチャンスの種を蒔くかのように本棚に差し込んでいくのである。

 

だがその一方、唯一危惧していることもある。それは息子が物心付くまでの、本がある空間での子育てだ。先ほどまで子供に本好きになって欲しいとつらつら書いておいて矛盾した話のようだが、これは書かずにはおれない。

現在、子の行動範囲は畳2畳分程のサークルの中に限られている。だが二足歩行が当たり前になり力も強くなってきたらいよいよ囲いを撤去せねばならない。そうなった時、真っ先に心配するのは蔵書達だ。主な子育てスペースであるリビングには壁一面の本棚があり、それとは別に大きな本棚も設置している。そして積読タワーが幾つも鎮座している。勿論、脆い、汚い、貴重な本も混ざっている。

私が目を離した隙に、まだ本を本として認識していない小さき怪獣がこれらの本を手にしたら…。ゾゾゾ…。

破る、折る、齧るの御三家が降り注いだらひとたまりもない。

本棚の前にゲートを重ねて強固な要塞を作るほか防ぐ手は他にないだろう。

こうして、囲う対象を子から本へとチェンジせねばならない転換期を想像しては頭を抱えている。

 

蔵書家の方々の子育て体験談こそ今、一番私が気になるトピックスだ。

それこそSNSにオススメで表示される機会を切に願っているのだが残念ながら未だに流れてこない。

 

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カラサキ・アユミ

1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。

幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。

肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。

大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。

(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)

著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。

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