2022.03.25
コラム
珍しく夫から「明日の休みはどこに行きたい?」と日頃のご褒美リクエストを受けたある日。
私は目を輝かせて即答した。
「やっぱりそうきたか…」夫は私の要望を想定していたのか、小さなため息を吐きながらもOKをくれた。
こうして、産後初めての〝古本魔窟〟への往復切符を手に入れたのであった。
私が住む北九州には倉庫のような古本屋が一軒ある。
雑誌BRUTUS等のお洒落なライフスタイルマガジンの〝書店・古本屋特集〟では絶対に取り上げられない系の年季の入った古本屋だ。私はその店の事を愛を込めて〝古本魔窟〟と呼んでいる。行けば必ず何かしら掘り出し物が見つかり、必ず指が埃だらけになる大好きな店の一つなのだが、郊外にあるので電車とバスの乗り継ぎが必要になる。移動に時間もかかるので単独で乳飲児を抱えての訪問は非常に厳しい。
だが、車で連れて行ってもらえるとなれば話は打ってかわり、40分程度の所要時間で到着できる上に息子はチャイルドシートでご機嫌安全に、私は優雅にくつろぎながら移動ができる。おまけに荷物が重くなっても帰りの心配もしなくて良いのだ。
さて晴れ渡った休日の昼下がり、約1年ぶりに再訪した店は相変わらず外まで古本やガラクタで溢れ返っており、依然怪しさ満点のオーラを放っていた。
その全く変わらない店の外観を車窓越しに目を細めて見つめていた私は「ただいま…」と自然と呟いていた。
車を裏手に停めてもらい、夫と段取りについて話す。
さすがに人1人がやっと移動できる所狭しと本が積み上げられたトラップだらけの店内に0歳児を連れて行くわけにもいかず、幸い寝てくれたのもあり、夫に子守を任せることにした。
私「何かあったらいつでも連絡して」
夫「起きたら呼ぶから」
私「わかった。後は頼んだ!」
小声でやり取りする。
極秘ミッションを遂行するような緊張感が全身を駆け抜ける。
携帯を握りしめながら、子が起きないようにソッと車のドアを閉めた。
制限時間はアト坊が目覚めてぐずりだす瞬間まで。それは神のみぞ知る。
いつ爆発するかわからない爆弾のアラームが内蔵された携帯を握る手は既に汗で湿っていた。
「う、うわぁぁ…!!!」
入店した瞬間に小さく叫ぶ。
床下から天井付近まで群生する古本達。毎度のことながら改めて新鮮に驚いてしまう光景だ。す、凄い。相変わらず凄まじい物量だ。
そして入り口入ってすぐの通路脇に、魅力的な匂いをプンプン放った昭和40年〜50年代の種類様々な少女雑誌数十冊がピサの斜塔のように積まれているのを発見し、入店前に練っていた〝いかに短時間で効率良く店内を満遍なく見て回るか作戦〟がわずか5秒で霧のように散った。
恐る恐る一冊試しに手に取ると予感的中お買い上げ間違いなしの面白さ、おまけに破格の安値に度肝を抜かれ、初っ端から冷静さが失われる事態となった。
そう、計画通りにいかないのが古本漁り、予測不可能な事態が待ち構えているのが古本ワールド。これぞ古本ハンティングの醍醐味。
いつ鳴るかわからない携帯の呼び出し音に怯えながら15分かけて猛ダッシュでまずはこれらの雑誌の選別作業を終えた。(全て購入したかったが凄まじい量ゆえに泣く泣く数冊に絞った。)
呼吸を整えて再び店内を見渡した。喉がゴクリと鳴る。
次に立ちはだかったのが、一度見始めたら二度と抜け出せない蟻地獄のような紙ものスペース。明治大正昭和平成令和、ありとあらゆる紙物(チラシ、ポスター、エンタイヤ(※) 、錦絵、版画、地図、チケット、ラベル、絵葉書…etc)が大量の段ボール箱に雑に詰め込まれた様子が何とも好奇心をそそる。
(※ 使用済みの切手、または切手が貼られた葉書や封筒のこと)
ゴミのようなものから珍品レベルまで、何が出てくるかわからない紙類でパンパンの段ボールがレジの前にズラリ縦横にと積み上げられているのである。
軽はずみに見始めようものなら気がつけば3時間が一瞬で吹き飛んでしまうレベルの紙地獄だ。又、ここを通過せねば店内奥に広がる古本コーナーには辿り着けない。
いつもだったら嬉々として探索に興じていたゾーンだが、今日は状況が全く違う。タガが外れて大変なことになるから手を付けるな!早く素通りしろ!後には戻れなくなるぞ…!私の理性が先ほどから囁いている。でも…でも、面白い物が沢山見つかるだろうなぁ。ちょっとくらいなら…。そんな欲の狭間で揺れ動いていると、後から入店してきた老紳士がスッと隣を追い抜いていった。
やがて目の前の段ボール群にダイブするかのような勢いで一生懸命に紙ものを漁り始めたではないか。その姿を羨ましく見つめる反面、彼がスペースを占領してくれたお陰で紙地獄トラップの誘惑から逃れた私は心置きなく前進することに決めた。
老紳士の後ろを「すいません」と声をかけながら身を拗らせて狭い通路を歩く。
「とんでもありません」と老紳士がさらに前屈みになって答える。
往復する度にこのやり取りが発生するものだから、スムーズに移動できず歯痒い気持ちになってしまったのだが、4回目あたりから近付く私の気配を察して事前に身を縮めて道を作ってくれるようになり、その老紳士の姿が何だか可愛らしく思えてマスク越しにニヤついてしまった。
そうして店内を駆け回るようにザッと見て回っている最中、一冊、無造作に置かれた革の装丁が美しい詩集が目に入った。
背表紙に印字された金色の文字はすっかり掠れてしまっていて読めない。本の側面三方には金箔加工が施されている。パラパラとめくると、美しい言葉で紡がれた一編の詩のページで手が止まった。思わず、私の中のロマンチシズムが疼いた。「これは欲しい!」すぐさま値段を確認すると 5,000円の文字。昔の自分なら躊躇なく購入していただろうが今の自分には即決できない金額だ。とは言え、なかなか本から手を離せないでいた。
しかし、とうとうその時はやってきてしまった。買うか買わないかを熟考しようとした瞬間だった。
ポケットに入れていた携帯が鳴る。
「坊、オキタ。ナキヤマナイ。」
「あぁゲーム終了…!」古本屋の中心で天を仰いだ。
急いで戻らねば!
後ろ髪を引かれる思いで詩集を元あった場所に置き、購入する古本達を抱え慌ててレジに向かう。
短い時間ながらも、なかなか面白い本達を安く見つけることが出来た。
「はい、これどうぞ。手ェ汚れちゃったでしょ〜。。」
レジのおばちゃんが優しい笑顔で濡れティッシュの入った容器を差し出してきた。
「今日は久々に来れたんですけど…子供がぐずり始めたみたいで…もっとゆっくり見たかったんですけど。ハハハ…」手を拭きながら思わずため息まじりに言葉が漏れていた。
「あららら〜。そりゃ大変だ。じゃあ端数の金額はおまけしてあげる!」と労いの言葉をかけてくれるおばちゃんに同調するように、そばで紙を漁っていた老紳士も「ふふふふ」と頷きながら私に困八の字眉毛で笑いかけてくれた。
あぁ、やはりこんな居心地の良い魔窟は他に無い。
ビニール袋を抱えて猛ダッシュで車に向かう。
外に出て息子を抱っこして一生懸命あやしている夫の姿が見えた。
「お利口に寝てくれてたんだけど…さっき起きてからずっと機嫌悪いんだよね。」
「オムツが気持ち悪いのかも!あと、そろそろミルクの時間だしお腹空いてるのかな…。」
服の袖をまくり、瞬時に古本脳から母親脳に切り替える。
だが、狭い車の中で身をかがめ我が子のオムツを交換しながらも、頭の中は先ほど出会ったあの詩集のことで一杯になっていた。ミルクを飲ませながらもまだ考えていた。すっかり機嫌が直りニコニコ顔の息子を前にしても依然悶々とした表情が消えない私を不思議に思い問いかけてきた夫に、詩集の事を話す。
どうせ止められるだろう。己に諦めを付けさせるために夫に諌めて貰おうと思ったのだ。
「…そんなに気になるなら買えばええやん!」
夫からの思いがけない返答に狼狽えた。
「買った分これからまた頑張ればいいじゃん。」
その潔い言葉を聞いた瞬間、私は詩集を迎えに車を飛び出して店へと舞い戻った。
(後日調べたところ、昭和初期に限定部数で刊行されたものでネットではどの店でもなんと数万円の値段で売られていることがわかった。函無しで状態が悪かったとは言え、到底5,000円では手に入らない貴重な代物だったのだ。更に喜びが増したのは言うまでもない。)
それにしてもまさか長年古本趣味において宿敵だった夫から背中を押してもらえる日が来ようとは…!
この日、私は何とも感慨深いご褒美を得たのであった。
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カラサキ・アユミ
1988年福岡県生まれ。海と山に囲まれた地方都市在住。
幼少期からとにかく古本の事で頭が一杯な日々を過ごす。
肩書きの無い古本愛好者。友人は少ないが古本は沢山持っている。
大学卒業後はアパレル店員から老舗喫茶店のウェイトレスを経て、以降は古本にまつわる執筆活動等をしながら古本街道まっしぐらの自由気ままな生活を送っている。
(※2021年に第一子誕生、現在は子育てに奮闘中!)
著書に、古本漁りにまつわる四コマ漫画とエッセイを収録した『古本乙女の日々是口実』(皓星社)がある。
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