コラム

2019.12.26

コラム

古本屋見聞録2 岡崎武志

「古本じいさん」になるのだ

というわけで2回目である。古本屋を巡っていると面白いことがある。某月某日、中央線沿線の店でのできごとと思って下さい。店主とはなじみがあり、レジ付近で軽口が叩ける間柄である。共通の知り合いの話などしていたところに、70代後半と見える老女が入店してきて、「あのう……」と切り出した。お邪魔すると悪いので、私は少し離れて耳だけ向けていると、探究書の相談で「○○のりょこうしゃ、という本を探している。早川書房から出ているらしい」という。「○○」はこの時、聞えなかったが、探究書が「ああ、いまうちにありますよ」というケースはまずほとんどない。広めの店で在庫2万冊としても、その中に、ピンポイントでお客さんが探している本が合致することは奇跡に近い。

店主は「りょこうしゃの『しゃ』は会社の『社』ですか、人の『者』ですか」と聞いて「者」だと返ってきた。すぐレジにあるパソコンで検索して、「これは映画のタイトルですね、『偶然の旅行者』……」というのを聞いて、私の灰色の脳髄がバラ色になった。会話に割り込み「あ、原作の名前は『アクシデンタル・ツーリスト』だ。作者はアン・タイラー。ハードカバーで、映画はウィリアム・ハートとキャスリン・ターナー、ジーナ・デイビスですね」と聞かれもしないことが、数珠つなぎで出てきた。

「あ、そうそう」と老女。「ペーパー・バック(文庫のこと)が出てると思うんだけど」と続けて言うので、「いや、あれはハードカバーだけで文庫にはなってないんですよ」と教える。「でも……」と食い下がるので、「ぼくは現物を持っているので間違いないです」と、なんだか判事みたいになってきた。店主は『アクシデンタル・ツーリスト』で「日本の古本屋」で検索。すると一点しかなく、3000円強の値がついている。うーむ、あれば100均の棚にあるような本だが、数が少ないとそういうことになる。よく売れた本でも、文庫になっていないと探すのはけっこう骨かもしれない。残念そうにしている老女に、「家で見つかったら、この店へ持って来ますよ」と実現の可能性が低い約束をする。「ぜひ、お願いします」と言って店を出て行った。

アン・タイラーなど、わずか15~20年ぐらい前までは、文春文庫が独占に近い形で邦訳を出していて、いずれもよく読まれていたのに(山田太一が大ファン。作家の平安寿子の筆名はアン・タイラーによる)、気が付くと『歳月のはしご』も『パッチワーク・プラネット』も『結婚のアマチュア』も、あれもこれも品切れになっている。話題に上がることも少なく、そうなるといないのも一緒で、古本屋でようやく口の端に上り、まだ頼もしい読者がいることが分かる。

古本屋での店内におけるこういうやりとりは初めてではなく、店にちょうどいて、お客さんと店主のやりとりを聞いて口を出すことは何度かあった。私だけでなく、老練の常連客は店主や店員になりかわって、ほかの客にアドバイスすることがあるものだ。知識屋は「教え屋」でもあるのだ。

私はもう少し年老いて、書く仕事も減ったら、知り合いの古本屋さんに雇ってもらって、そういう仕事がしたいと思っている。つまり、レジ脇か暖かい日なら店頭に椅子を出して、首から「古本なんでも相談係」の札をぶら下げる。そして、客からの探究書や、読書全般の相談にのる「古本じいさん」になるのだ。

「ああ、それならむしろ、昭和40年代に出た角川文庫を探す方が早いですよ。星新一、筒井康隆、小松左京、眉村卓など、日本SFの宝庫でした」などと言う。「なるほど、そしたらO・ヘンリーを読んでごらんなさい。短編小説を書くヒントが得られるし、芝居の脚本を書くのにも勉強になるはず」とか。これはいいかもしれない。

 

話しかける店主

古本屋という職業は、単に商品としての本を棚に並べて売ることだけにとどまらず、時に客に情報を提供したり、パソコンが苦手な高齢者のために検索して、場合によっては注文、代行者として本を買ったりもする。そうしているという声をけっこう聞くのだ。もちろん、これは利益にはならない(手数料を取ったりはしない)。長い目で、顧客になってもらうためのサービスである。本の話をするのが大好き、という人種がまだまだ大勢いて、古本屋はそれらの声を聞く駆け込み寺のような存在でもある。

京都市左京区に「古書善行堂」という、開店10年になる店がある。店主は古書についての著書も持つ山本善行(友人なので、さん付けはしない)。彼が書いているブログなどを読んでいると、客としょっちゅう会話して、ときに「こういう本があるから読んでごらん」と奨めている。先日も洲之内徹を知らない客に教えて、喜ばれたと書いていた。「芸術新潮」に長らく「気まぐれ美術館」シリーズという美術エッセイを連載した画廊主だが、文章も人物もめちゃくちゃ魅力がある。知らないと、なかなかその存在に近付けないタイプの書き手(ベストセラー作家ではない)でもあるから、善行堂のような橋渡しが必要だ。

こうなると、同じ本がほかの古本屋で売られていても、善行堂へ行こうという気になるだろう。「古本ソムリエ」と自称するのも、よく分かるのだ。

彼の店に熱心に通ってきた顧客の一人に、清水裕也さんがいて、それまで古本にまったく興味がなかったのに、「古本ソムリエ」の指導で、ずぶずぶと古本の沼にハマってしまった。そうして善行堂との共著として出来上がった『漱石全集を買った日』(夏葉社)には、清水さんがこれまで買った古本(ほとんどが善行堂)を本棚に並べた写真がカラー写真で掲載されている。驚くべきは、わずか数年で、文芸書を中心とした渋めの老練な読書人のレベルに達していることだ。こうなると善行堂は古本の道場で、清水さんはいわば免許皆伝の客でもある。

もちろん、そうしたやりとりを嫌がる店主や客もいるだろう。しかし、これから本を好きになりそうな若い客には、「善行堂」のように店主の方から話しかけてもいいのではないか。新刊書店の店員さんは忙しすぎて、同様の対応に躊躇するだろうし、自分が生まれる前の出版知識を仕入れる時間と余裕がない。古本屋という職業が、これからも生き残る一つのヒントがそこにあるという気がする。ないと、絶対に困るのだ

 

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岡崎武志(おかざき・たけし)

1957年大阪府枚方市生まれ。1990年単身上京。雑誌編集者を経て

フリーに。古本ネタ、書評などを中心に執筆。さかんに神保町かいわい

に出没。「神保町ライター」と名乗ったこともある。著作に『女子の古

本屋』(ちくま文庫)、『古本道入門』(中公文庫)、『蔵書の苦し

み』(光文社知恵の森文庫)、『ここが私の東京』(扶桑社)など多

数。近著に『これからはソファーに寝転んで』(春陽堂書店)がある。

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