2021.02.12
コラム
「古本屋巡りも出来ないし新しい古本に触れてないから辛すぎて…はぁぁ〜」
馴染みの立ち飲み屋で女将さんを前にしてカウンターにうなだれながら全身から気だるい空気を放ち愚痴をこぼしていたある日。
「前から古本狂いとは知ってたけどそんなにもかね、アンタ」
モツ煮込みが入った湯気立つ鍋を箸で掻き回しながら、ハスキーな声の女将さんが半ば呆れ顔で尋ねてきた。
「生き甲斐ですよ、もうね、見知らぬ本を手に取った時のあの沸き起こる快感…。あぁ、遠出して古本漁りに行けない日がこんなに続くなんて…コロナめぇぇ…」
返答しながらまたもや愚痴をリピートし始めようとした私に福音がもたらされたのは次の瞬間であった。
「そんなに古い本が好きなら、あるよ。うちに山ほど」
女将さんが突如放った思いがけない言葉に「へ?!」と狼狽えた。
「明日店に持ってきてやるからさ。見てみな。欲しかったらやるから」
「え…えええ〜!!」
翌日、本を見にお店に向かう道中の私の心中は正直言うと複雑だった。
なぜかというと、これまで顔見知りになった年長者の方から不要になった本をご厚意で頂戴するという経験は何度かあったのだが、差し出された本を「ありがとうございます!」と笑顔で受け取りながらも、その心内は「おぉぉぅ…これはちと私の趣向とは違うのだが…でも折角持ってきてくれたのだし…そのお心遣いに感謝致します!」というケースが多かったからである。
そのようにして譲り受けた本達は、例えば分厚いフランス語辞典やレトロな児童文学全集や昭和の週刊誌など、古い本とはいっても私の琴線に触れるような〝古本〟とはまたニュアンスが異なるものだった。
しかし本を譲ってくれた側が「本が好き=本全般が好き&本を読むのが好き」と解釈するのは至極当然であって、読み物として価値があると思っているから譲ってくださったわけであり、それらの考えと〝感覚で楽しむ〟をモットーにした私の古本趣味とのあいだに乖離が生じるのは仕方のないことなのだ。
「確かあの子は本が好きだと言っていたからこの本を譲ってあげよう」
そんな風に思って本を差し出してくれた相手の気持ちが何よりも嬉しいではないか。これこそが人として大切にしなければならない部分である。
今回もどんな本にせよ、88歳の女将さんが落ち込んでいる私を元気付けようと折角持ってきてくれた本達であるわけだから、たとえ好みの本でなかったとしても全身全霊をもって喜び受け止めるのが最善策だ!!
お店の前に到着した私はそう気持ちを固めていたのであった。
「こんちわぁ…」
営業前の店の引き戸をガラガラガラ…と開けると薄暗い店の奥で女将さんが仕込みをしながらこちらに顔を向けた。おずおずと店内に足を踏み入れる私に「そこの箱の中、見てみな」と、いつものハスキーな声が投げかけられた。
ゴクリと唾を飲み込みながら店の隅に置かれた段ボール箱を開けると…。
「!!! こっ、これは…!!!」
蓋を開けた瞬間に匂い立つカビの香り、解読不明の文字が刻印された埃まみれの背表紙達。まさに古色蒼然たる古本の重箱! これはヤバい! 予想を斜め上にいく手元の光景にワナワナと手が震えた。
「アンタがなんとなく好きそうなやつを選んで持ってきたんやけど。表紙の絵や挿絵やら写真が面白いやつやらね。まぁ好きなように見てみ。欲しいのあったら持っていきな」
いつの間にか私の目の前にエプロンで手を拭きながら女将さんが立っていた。
まずは一冊一冊丁寧に箱の中から取り出す。
表紙を目にした後にページをパラパラとめくり奥付をザッと確認する。この動作をハフハフ息荒く無我夢中に行なった。驚くことに、どの本も私の琴線に触れるような興味深い本ばかりだったのである。
狂喜しながら本を眺める私の様子を見て、やがて女将さんが色々とこれらの古本にまつわる話を語り始めてくれた。
女将さんの亡くなったお父さんは大変な読書家で自宅にはまだまだ古い蔵書が大量に眠っていること。お祖父さんの代から実家が印刷工場を営んでいたこと。当時売れない作家や作家志望の人が自費出版で本を作るためによく工場に集っていたこと。工場を畳む際これまで製本した本達の膨大な量の見本を処分するのがそれはそれは大変だったこと…。
「でも私も家族も毎日忙しゅうて本なんか読む暇がないからね。家に眠る本を体が動くうちに処分せないかんとずっと思ってたんよ。この間近くのブックオフに試しに聞きに行ったけど〝古い本は買い取り出来ない〟としか言われんかった。もう面倒臭くなって随分捨てたね。でもまだまだ溢れるほどあるんよ、父親の本が。アンタみたいに本が好きな人間に貰ってもらった方が気分がいいわ」
取り出した本をカウンターに積み上げながら女将さんの話に耳を傾ける。気がつけば指先は埃で真っ黒になっていた。
結果その日、慌ただしくも選書した二十数冊もの本を私は譲り受けた。女将さんが用意してくれたふたつの紙袋はパンパンになり今にも破けそうな状態に。久しぶりに感じる両手にくい込む紐の痛さが何とも実に心地良かった。
さて、自宅に帰りつくなり興奮冷めやらぬ私は真っ先にある作業に取り掛かった。戦利品の古本達の詳細チェックである。まずは本にまとわりついた埃を払うために庭先に布製の折り畳みベンチを広げその上に本達を並べる。全ての本の埃をある程度取り除いた後、お次は奥付を見ながらネットでその本についての情報を調べる。全国の各古本屋の出品状況を一気に確認する事が可能なサイト「日本の古本屋」を利用することが多い。この作業が実に楽しい。自分にとって未知なる本、それも背表紙にバーコードが存在しない古い本の場合、その本が古書としてどれぐらいの価値があるものなのか。やはりこれはとても気になる点である。例えば、「この本は何だか好きだ!」と感じてたまたま安値で入手した掘り出し物が実は貴重な一冊として古書界で認識されている事実が判明した場合、己の審美眼に新たな勲章が加わることになる。また、しばしの優越感に浸ることも出来る。もちろん、時として逆のパターンも当然あるわけだが…。
「うぉぉぉぉぉぉぉ…!」
書名を検索にかける度に私はひとり庭先で足踏みをしながら小さく叫び続けた。
風景写真が面白いと思って選んだ『満州名勝大観』は2万円の古書価がついているし、耽美な少女の挿絵に心惹かれて手に取った『真珠の夢』は8000円ではないか! 検索してもヒットしない本も多数あった。という事は世にあまり出回っていない1冊であるのは紛れもない事実である。ある無名の文学青年が作成したガリ版刷りの小説や詩集や郷土史。昭和初期に故人を偲ぶ記念品として葬式で参列者に配布するために製作された〝饅頭本〟に至っては非売品である。これらは価値が表沙汰になっていないだけで、間違いなく貴重な資料と言える。そんな古本達が今日私の手元に大量にやってきたのである。
なんともドラマティックな戦利品の古本模様に酔いしれてしまったのであった。
と、同時に私の脳内にある葛藤が生じた。
「女将さんにこの事を知らせるべきか…黙っておくべきか…」
こんな貴重な本達を無料で頂戴してしまったという緊張感。女将さんがこれら本達の価値を知らないまま私に譲ってくれたという罪悪感。
陰と陽の感情のせめぎ合いの最中、「正直であれ、誠実であれ」という亡き祖母の言葉がなぜか脳内をリフレインしたのであった。
その翌日、勇足で女将さんのもとを再び訪れた私は、頂戴した本がいかに価値のあるものだったかをありのままに熱弁した。
だが女将さんは話の途中で「あぁもう面倒臭い! 価値とか知らん! いらんもんはいらん!」と笑いながら一喝。後光がさす女将さんの顔が眩しくて直視することが出来なかった。
感謝の気持ちが収まらなかった私はせめてこれだけでもと甘党の女将さんの好物である苺大福が入った袋を無理矢理押し付けた。女将さんは「若いくせにこんな気を使いなさんな!」と私の右肩をバシッと力強く叩いた。
「今度また本持ってくっから。見においで」
女将さんの再びの誘いに、叩かれた右肩をさすりながら晴れやかにエヘラ笑いを浮かべた私なのであった。
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カラサキ・アユミ
1988年福岡県に生まれる。幼少期よりお小遣いを古本に投資して過ごす。
奈良大学文化財学科を卒業後、(株)コム・デ・ギャルソンに入社。
7年間販売を学んだ後に退職。
より一層濃く楽しい古本道を歩むべく血気盛んな現在である。
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